〜Aviation sometimes Railway 〜 航空・時々鉄道

航空や鉄道を中心とした乗り物系の話題や、「迷航空会社列伝」「東海道交通戦争」などの動画の補足説明などを中心に書いていきます。

アシアナ航空売却で韓国やアジアの航空会社再編は起こる?

4月15日、韓国の大手航空会社、アシアナ航空を保有する大手財閥、錦湖(クムホ)アシアナグループは、金融支援と引き換えに保有するアシアナ航空株を売却すると発表しました。

アシアナ航空は1988年に韓国の航空会社参入規制が緩和された事に伴い、クムホグループによって設立され、以来クムホグループの中核企業・韓国第2位の大手航空会社として発展してきましたが、近年はアシアナ自体の業績悪化に加え、クムホグループ自体も拡大戦略とM&Aの失敗で7兆ウォン(約7000億円)の負債を抱え、資金繰りに窮した結果今回の売却となりました。今後は売却先を探すことになりますが、同じ韓国国内の大手財閥、SKグループやハンファグループが有力視されています。

 

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www.chosunonline.com

 

さて、今回のアシアナ航空の売却ですが、多額の負債を抱えるアシアナやクムホグループの再建にはこれしかなかったのだろうと思います。近年は機内食が用意できない問題で自殺者を出したり、クムホグループ会長自身も傘下企業の女子社員に喜び組のようなことをさせていた事が発覚するなど不祥事が続いていました。市場もクムホグループを離れる事で経営改善が期待できるとアシアナ株がストップ高になったくらいですから、クムホグループ単体での立て直しは企業統治面でも難しかったのではなかったのでしょうか。

 

その一方で今回の売却が韓国やアジアの航空再編に繋がる可能性は低そうです。大抵の国で設けられている航空会社の外資規制は韓国にもあり、アシアナ航空を外資系ファンドや国外の航空会社に売却するのは不可能。国内の競合他者への売却も大韓航空は独占禁止法に引っかかる可能性が高い上に大韓の親会社の韓進グループも会長の急死で今後のグループ運営が不透明になっており、アシアナ買収どころではないので現実的ではありません。イースター、ティーウェイ、チェジュといった中堅LCCも規模的にアシアナ丸ごと買収は不可能ですし、今回のアシアナ売却は傘下のエアソウル、エアプサンの個別売却は想定していませんから、今のまま推移すれば業界的にはアシアナの親会社が移動して終わり、となりそうです。

 

むしろ今後の懸念事項はアシアナの売却先探しが長期化する事でしょう。売却先として名前が挙がってるSKもハンファも「アシアナを買えるだけの財力とメリットがある」と言うだけで、当事者から手が挙がった訳ではありません。アシアナ売却のネックは売上高に匹敵する7兆ウォンの負債であり、クムホよりも大きいSKやハンファと言えども簡単に手は上げにくいと思います。

ひょっとしたら、アシアナに出資して乗り継ぎを強化したい海外の航空会社と組んでリスクを分散させることも考えられます。候補としては同じスターアライアンスに所属するユナイテッド、ルフトハンザ、ANA辺りが考えられますが、韓国の加盟会社がいないワンワールド加盟会社が鞍替え狙いで出資を持ちかける可能性もあります。いずれにしろ売却先が決まるまでは数ヶ月かかると言われていますので、この問題が決着するまでは時間がかかりそうです。

 

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航空会社や鉄道会社で活躍した昭和の運輸官僚

随分と間が空いてしまいましたが、迷航空会社列伝「東急の空への夢」第4話をアップしました。今回からYouTube版は映像の比率が多いものを、ニコニコ版は静止画の比率を増やして代理の人のセリフを増やしたものをアップしています。YouTubeのスパム対策の一環ではありますが、せっかくの機会なので単に画像を差し替えるだけでなく、多少は手直しをしていますので、両者を見比べて違いを楽しんで頂ければと思います。

 


東急の空への夢 第4話「至誠監督官庁と競合相手に通ず」

 

さて、このシリーズの動画内ではしばしば運輸省の事務次官出身者が登場します。今回の動画でも登場した全日空社長の若狭得治氏や、日航社長の朝田静夫氏、今回の動画内ではまだ現役の運輸省職員ですが住田正二氏や中村大造氏など、この時代は事務次官経験者が退官後、民間の鉄道会社や航空会社の社長として転身するケースが少なくありませんでした。官僚のトップである事務次官まで登り詰めただけあって、社長転身後も単なるお飾りではなく、転身後の会社を大きく発展させたり、赤字の鉄道会社を立て直したりと民間出身者顔負けの活躍をされています。今回はそんな航空会社や鉄道会社で活躍した昭和の運輸事務次官経験者をご紹介しましょう。

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朝田静夫(次官在任時期1961.7~1963.4 日本航空社長など)

東大法学部出身で、当初は逓信省(戦後郵政省を経て現在の総務省)に入りましたが、戦後の省庁再編で運輸省に移りました。運輸省では官房長や海運局長といった出世コースを順調に歩み(戦後すぐのころは海運局の影響は大きく、エリートコースとされていました)、1961年に運輸事務次官に登り詰めます。事務次官時代には海運業界再編などの実績を上げたのち、1963年4月に退官しました。

その後は日本航空に天下り、専務、副社長を経て1971年、日本の民間航空再建に尽力した松尾静麿の後を受けて社長に就任します。朝田時代の日航は日本の経済発展に合わせて世界を代表するフラッグキャリアへと駆け上がった時期であり、彼自身もニューヨーク乗り入れや日ソ、日中路線の開設交渉で手腕を発揮しました。後述する全日空社長の若狭得治とは3年差の先輩後輩の間柄でしたが、両者の仲は犬猿の仲といわれるほど悪く、若狭による全日空の躍進は朝田への対抗心もあったのかもしれません。

その一方で1972年のニューデリーやシェメレーチェヴォの墜落事故や、ドバイやダッカなどのハイジャック事件など、朝田が社長の時代は日航の安全体制が問われた時期でもありました。1981年に社長を退任し、相談役となった後は日本航空協会会長や国際交通博覧会協会会長など多数の公職を歴任しました。若狭ほど派手な活躍はありませんが、日航を世界の主要キャリアと張り合えるほどの地位に押し上げたのは彼の大きな功績と言っていいでしょう。1996年11月、85歳で死去。

 

若狭得治(次官在任時期1965.6~1967.3 全日空社長→会長→名誉会長)

この方は動画内でも触れていますし、全日空の歴史を語るうえで絶対に外せない人ですから、全日空時代の功績については言うまでもないかと思います。若狭は富山県出身で1938年に逓信省に入省、朝田と同じく省庁再編で運輸省に移っています。戦後すぐの時期は結核にかかり3年間の療養生活を余儀なくされますが、1953年10月に大臣官房考査室長として復帰。その後は神戸海運局長、東大部長、海運局次長→局長と海運畑を歩き、海運局長時代には海運会社の統合にその手腕を振るい、海運業界の体質強化を図りました。ちなみに海運局次長時代に局長だったのが朝田であり、どういうわけかこの二人には因縁めいたものがあるようです。

1965年6月に運輸事務次官に就任し、国鉄料金の値上げ問題や船員ストの調停、日米航空協定の改定や日ソ航空協定の締結、新東京国際空港の候補地選定など様々な運輸関係の問題に携わり、1967年3月に退任しました。

このころの全日空社長の岡崎嘉平太は、自分の後継として若狭に目をつけており、猛烈にアプローチしたそうですが、事務次官経験者の民間企業への天下りは退任後2年たってからという不文律があり、すぐの就任は不可能でした。このため若狭が全日空に顧問として入社したのは1969年であり、副社長を経てM資金詐欺に引っかかって辞任した大庭哲夫の後任として1970年に社長に就任します。

全日空社長となった後は国際チャーター便進出や大型ジェット機の導入、ホテル事業の展開などの経営の多角化を図り、二流会社扱いだった全日空を「国内線のガリバー」として大きく発展させ「全日空中興の祖」と呼ばれるようになります。1976年のロッキード事件で外国為替管理法違反、議院証言法違反の容疑で逮捕されますが、全日空社員は若狭を追い出すどころか最大の功労者を守ろうと一致結束します。社長の座こそ退かなければなりませんでしたが、その後も会長として引き続き全日空の発展に尽力し、念願の国際線開設を見届けます。

1991年に名誉会長に退いた後も全日空に隠然たる影響力を持ち、「全日空のドン」と呼ばれましたが、1997年の次期社長をめぐるお家騒動で相談役に退き、以後は表舞台から身を引きました。2005年12月、肺炎のため91歳で死去。

 

佐藤光夫(次官在任時期1967.3~1968.6 京成電鉄社長)

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 前述の2人が会社の発展に尽力したとすれば、佐藤氏は経営不振の会社の再建に尽力した運輸次官経験者です。佐藤は長野県諏訪市出身で、東京商科大学(現一橋大学)を卒業後、実業に関係のありそうな省庁を希望して鉄道省に入省。この方も省庁再編で運輸省に移ってますが、前述の2人とは元の所属が違います。大阪陸運局長時代は白タク禁止を実現しましたが、自宅前でデモが行われるほど猛反発を喰らうも、粘り強い交渉を続けて実現しました。1965年には航空局長に就任し、若狭の下で日米航空協定改定や日ソ航空協定の日本側代表を務めます。

その後海上保安庁長官を経て1967年3月、若狭の後任の運輸事務次官に就任します。1968年の退官後は運輸経済研究センター理事長や日本民営鉄道協会理事長、国際観光振興会会長などを歴任しますが、民間企業とは無縁の世界にいました。

 

1979年6月、日本興業銀行から京成電鉄副社長に転じていた村田倉夫に懇願され、経営不振に陥っていた京成電鉄の社長に就任します。当時の京成電鉄は前任の川崎千春社長のもと観光事業や小売業、不動産事業など多角化路線を進めていましたが、オイルショック後の不況や行き過ぎた不動産投資、開港後の空港アクセス利用を見込んでいた成田空港の開港が遅れた上に空港直結ができなかったことなどで1978年には株式配当が無配に転落するなど深刻な経営危機に陥っていました。さらにこの頃の京成は労使対立も激化しており、京成線の廃線も検討される程深刻な状態でした。要は佐藤が招聘されたのは運輸省時代の経験と人脈を当てにした京成電鉄の再建だったのです。

社長に就任した佐藤は副社長の村田との二人三脚でなりふり構わぬ再建を進めます。1980年に策定された経営再建計画では25%もの人員削減や系列百貨店の店舗整理、谷津遊園の閉演と跡地売却や津田沼の車両基地の宗吾参道への移転と跡地の売却などの資産整理など厳しいもので、特に人員削減については一時日本民営鉄道協会から脱退して春闘で独自に組合と交渉するなどメンツを捨てたなりふり構わぬものでした。こうした努力が実って1984年には債務超過から脱却し、主力の鉄道、自動車部門の黒字化も達成します。さらには傘下のオリエンタルランドがディズニーランドの招致に成功し、1983年に開業した東京ディズニーランドが大成功を納めた事も業績改善に大きく貢献しました。佐藤は1986年に村田に社長の座を譲り、会長に退きます。1990年には相談役に退いて京成の経営から離れ、1997年7月に83歳で死去。

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中村大造(次官在任時期1976.6~1978.6 新東京国際空港公団総裁、全日空社長)

三重県桑名市出身で、東京帝大にまで進みましたが、1944年に学徒動員で海軍に入隊、戦艦「長門」にも乗艦するなど次官経験者には珍しく兵役を経験しています。

1946年に運輸省に入省した後は人事課長、観光部長、自動車局長、航空局長を歴任します。ちょうど全日空とTDAが長崎線開設で揉めていたころの航空局長ですね。1976年6月に運輸事務次官となりますが、ちょうどこの頃はロッキード事件で政財界が揺れていた頃。必然的にロッキード事件解明に大きく関わる事になります。また、中村が次官を務めていた頃は成田空港開港を巡って闘争が激化していた頃でしたが、講義に訪れた反対派を歴代運輸事務次官で唯一直接応対し、コーヒーも出してもてなすなど、人柄の良さが分かるエピソードもあります。1978年6月に退官した後は国鉄常務理事を務めたのち新東京国際空港公団副総裁→総裁を務めました。

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その後1983年に次期社長含みで入社したものの1年で退社した住田正二に代わり、全日空第7代社長に就任します。社長在任中に「45・47体制」が撤廃され、1986年に悲願の国際線進出を果たします。3月3日に成田~グアム線の就航式典であいさつをしますが、その場所はくしくもかつて自身が総裁を務めた成田空港であり、創業以来の夢を自身の手で、ゆかりある場所で実現できたことに感無量だったのではないでしょうか。

しかし、残念ながら中村氏はその後の全日空の発展を見届けることはできませんでした。翌年の5月6日に肺の石灰化の為現職のまま死去。まだ67歳の若さでした。

 

住田正二(次官在任時期1978.6~1979.7 JR東日本社長)

この方も動画内で重要な地位を占めていますが、他の方に比べると必ずしも順風満帆なキャリアではなかったようです。

住田は1922年に神戸市で生まれましたが、父が呉造船所社長だった関係で本籍は広島県呉市にありました。東京帝大に進学したものの、2年次に学徒動員で招集、大邱に二等兵として配属されたのち幹部候補生試験を受けて合格、浦和で勤務の後終戦を迎えます。

戦後は大学に復学し、卒業後1947年に運輸省に入省。海運総局に配属され、海運、造船業界の再建整備を担当します。この時に貸借対照表や損益計算書について勉強しており、1955年に防衛庁に2年間出向しています。その後航空局監理部長や鉄道局国鉄部長、官房長や鉄道監督局長などを歴任して1978年6月に運輸事務次官に就任します。

 

ここまでは順風満帆で次官も2年務めるのではと言われましたが、運輸大臣の森山欽司と対立して1年で退官してしまいました。退官後は運輸経済研究センター理事長に就任し、その後次期社長含みで全日空に常勤顧問として迎えられます。しかし、ここでも会長の若狭と対立してしまい1年で退社。TDAの時もそうでしたが、どうもこの人は言い争いで敵を作りやすいタイプだったのかも知れません。

その一方で1981年に第二臨調専門委員となり、国鉄、電電公社、専売公社の三公社民営化や特殊法人見直しに尽力します。1983年からは国鉄再建監理委員会の委員の一人となり、国鉄分割民営化を答申する立場となりました。運輸省時代から反骨気質のある人でしたから、ある意味行政改革は住田氏にとって適任だったのかも知れません。

 

そして1987年、運輸大臣だった橋本龍太郎の要請を受けてJR東日本の初代社長に就任します。JR時代の住田氏は組織のスリム化と現場への権限移譲、技術面の強化、合理化と効率化の推進などJR東日本の経営基盤確立に辣腕を振るいました。1993年に会長に退き、1996年に最高顧問、2000年に相談役となり、2017年12月に老衰の為95歳で死去。波乱万丈な人生でしたが、一番長寿だったのもこの人でした。

 

杉浦喬也(次官在任時期1982.6~1984.7 国鉄総裁、全日空会長など)

この方も退官後のキャリアは紆余曲折を辿りました。1925年に東京都大田区で生まれましたが、4歳の時に父親と死別し、母親が美容師となって女手一つで育てられたようです。東京大学卒業後、1951年に運輸省に入省しますが、この時の動機に後に日本航空社長となる山地進がいます。1969年に国鉄部長となりますが、この頃に後に国鉄分割民営化で大きな関りを持つ運輸族議員、三塚博や加藤六月と親しくなりました。

その後1982年6月から運輸事務次官を2年務めたのちに退官し、港湾近代化促進協議会会長に就任しますが、1985年6月、国鉄分割民営化に消極的だった第9代国鉄総裁の仁杉巌が中曽根総理の強い意向で更迭され、その後任として第10代国鉄総裁に就任。運輸大臣となった三塚や、松田昌士、井手正敬、葛西敬之の「国鉄改革三人組」らとともに国鉄分割民営化にあたる事になります。国鉄の終焉を見届けた後はJR東日本の初代社長に就任する話もありましたが、結局はJR東日本の社長は住田となり、杉浦は国鉄清算事業団総裁となりました。

 

その後1990年には全日空に転じ、翌年には若狭の後任の会長となります。全日空時代の杉浦は国際線拡大を進めますが、軌道に乗らず赤字続きとなってしまいます。最後は若狭同様、全日空の後継社長を巡るお家騒動で会長を退き、相談役になります。2008年1月、82歳で死去。

 

 

まとめ 

以上、昭和時代の運輸事務次官経験者の民間での活躍をご紹介しました。こうして見ると民間転身後の活躍は決して腰掛けではなく、運輸省時代の経験や人脈を生かして転身先でも活躍するケースが多い事に気づきます。また、過去の次官経験者と退官後も関わりのあるケースも多く、特に全日空に転じた次官経験者が多いのは、大物次官だった若狭氏の影響が大きかったからでしょう。

平成の時代に入ると官僚の民間への天下りがやり玉に上がったこともあり、次官経験者の民間企業への転身は鳴りを潜めました。省庁再編で国交省になった後は次官経験者は特に目立つからか、特殊法人や特殊会社に転じるケースが多いようです。昭和の時代は優秀な経営者を多く輩出した運輸省。現在では国交省出身者が大手企業で辣腕を振るう、と言う事はもうなさそうですが、日本の交通産業発展の礎を築いたのも官僚出身者だったのもまた事実。戦後の混乱期で辣腕を振るった剛の者だったからこそ、民間でもその能力を遺憾なく発揮できたわけですが、果たして、今の中央省庁の官僚にそんな気骨のある人はいるもんですかねえ・・・

 

 

 

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貸切バス運賃の旅行会社への手数料規制は必要。でもそれだけでは根本解決にはならない。

国は貸切バスの運賃について、バス会社から旅行会社に支払う手数料によって実質的な「下限運賃割れ」を防ぐための規制や対策の強化に乗り出します。5月以降、バス会社が旅行会社に払う手数料を文書に明記することを義務付けます(恐らく運送引受書のことかと思います)。また、事業年度ごとにバス会社が旅行会社に支払った手数料額の国への報告も今年度から義務付けられます。

また、過大な手数料などによる実質的な下限運賃割れについても調査・監査体制が強化され、第三者委員会の窓口に寄せられた情報などを基に国が積極的に調査し、安全運行に影響するような過大な手数料に対しては第三者委員会の助言を受けつつ、悪質なものに関してはバス会社や旅行会社に行政処分を科すことになります。


mainichi.jp

 

現在の貸切バスの運賃は2014年4月1日に制定されたものですが、各地域の運輸局が定めた基準運賃をもとに計算し、上限運賃と下限運賃を超えないようにしなければならない、と言うものです。その計算方法は、

時間制運賃(出庫から入庫までの時間+2時間×1時間当たりの単価)+キロ制運賃(入出庫の回送を含めた走行キロ×キロ当たりの単価)

が基本となり、交代運転手が必要な場合や運行時間が深夜時間帯(22時~5時)にまたがる場合、リフトバスなどの特殊車両の場合は更に割り増しされます。ちなみに、基準となる公示運賃は運輸局によって微妙に異なります。

 

関東運輸局の貸切バス運賃制度

http://www.mlit.go.jp/common/001201037.pdf#search=%27%E8%B2%B8%E5%88%87%E3%83%90%E3%82%B9+%E9%81%8B%E8%B3%83%27

 

北陸信越運輸局の貸切バス運賃制度

http://wwwtb.mlit.go.jp/hokushin/hrt54/bus_taxi/pdf/kashikiri_seido.pdf

 

新しい運賃制度が導入されたきっかけは2012年4月29日の関越道ツアーバス事故であり、規制緩和で貸切バス会社が急増した事で過当競争になり、バス運賃が下がり過ぎて人件費や安全の為のコストも賄えなくなったことが問題視された為でした。それまでも公示運賃はありましたが守られることはなく、実際の運賃は安く仕入れて激安ツアーを造成したい旅行会社の思惑や、後発で知名度が低い上に過当競争で優良顧客を持たず、安くてもいいから安定した仕事が欲しい小規模なバス会社の窮状から採算ぎりぎりの運賃で過酷な運用が続けられており、有名無実化していました。

その後、2016年1月の軽井沢スキーバス事故で規制はさらに強化され、国交省もバス会社への監督や運行中のバスへの立ち入り監査、旅行会社への指導や悪質な下限運賃割れへの行政処分なども行われるなど、以前に比べると下限運賃を大幅に下回るようなケースはかなり少なくなりました。

www.nikkei.com

 

しかし、今度はバス会社から旅行会社に支払われる「手数料」と言う形で事実上の値引きを迫るケースが出て来ました。バス会社に限らず、旅館やレストラン、一部の観光施設や土産物屋など、旅行会社が旅行者を集客して観光施設に送り込んだ場合は代金の一部が手数料として支払われており、これが旅行会社の収入源になります。貸切バスの場合大抵は10%、多くても15%が相場ですが、下記の総務省行政評価局の勧告書にはその相場を大きく上回る手数料の事例が記載されており、30%や40%、ひどいものだと50%という法外な手数料を要求されたケースもあったようです。これら手数料に関してはこれまでは規制の対象ではなかったため、このような「抜け穴」を使って事実上下限割れの運賃を続けるケースが少なからずありました。今回の規制強化はこの「抜け穴」を防ぐためのものであり、一定の歯止めはかけられるのではないかと思います。

 

貸切バスの安全確保対策に関する評価・監視(総務省HPより)

http://www.soumu.go.jp/main_content/000499515.pdf

http://www.soumu.go.jp/main_content/000499517.pdf

 

 

 

旅行業界に身を置いている私としては、手数料自体は旅行会社経営の根幹となるものですし、お客様サイドから取扱手数料を請求するのが困難な現状を考えると、完全に禁止されると事業が立ち行かなくなるのでそれ自体は残して欲しい、と言うのが正直なところです。しかし、いくら何でも30%や40%の手数料は法外ですし、何のために規制を強化したのか分からなくなってしまいます。先の総務省の勧告書にも9割以上は15%以下の手数料と書かれていましたので、こんな法外な手数料を請求する業者はごく一部だと思います。

私が勤めている中小の旅行会社はそんな手数料率を押し通す力はありませんし、悪評が広まってその地域で仕事ができなくなりますから、法外な手数料を取っているのはよほどの大手か、インバウンド業者など大量の旅行者を送り込める会社か、そうでなければ後の信頼関係を築くつもりのない焼畑農業的な会社がやっているのではないでしょうか。そういう一部の業者を締め出し、旅行業界を健全化させるためにも規制の強化は必要だと思います。

 

しかし、手数料規制だけではバス業界が抱える問題の抜本的な解決策にはなりません。問題の根本は「規制緩和で必要以上にバス会社の数が増え、過当競争になっている事」「消費者や旅行会社が低価格に慣れ過ぎ、値下げ圧力が強い事」「運転手への負担は増える一方なのに上記の過当競争や値下げ圧力で賃金上昇が抑制され、新たななり手が現れない事」であり、この大元の問題を解決しない限り、一部の旅行会社はまた別の抜け穴を使って下限割れの運賃を出そうとするでしょう。例えば「年間◯十台以上バスを使ったらインセンティブ〇〇万円」とか、運送引受書に載せない形でキックバックをする方法はいくらでも考えられるからです。

根本的な問題を解決する為には、バス業界や旅行業界の構造そのものを変える必要があります。私なりの考えでは「必要以上に緩い参入規制の再強化」「業界再編などによる事業者の整理統合」「抜け駆けして値下げする業者や優越的地位を利用して圧力をかける業者への厳罰化」が必要なのではないかと思います。長くなってきたので詳細についてはまた改めて書きたいと思います。

 

 

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新一万円札の顔・渋沢栄一と航空との意外な関わり

4月9日、財務省は現在の千円、五千円、一万円の紙幣を2024年度上半期に一新すると発表しました。新紙幣に使用される肖像画は千円札は日本の近代医学の父と言われる北里柴三郎、五千円札は津田塾大学の創始者で女子教育の第一人者の津田梅子、そして一万円札は第一国立銀行をはじめとして生涯で500社の企業設立に関り、日本の資本主義の父と言われた渋沢栄一。新紙幣がお目見えするのはまだ5年も先の話ですが、個人的には日本経済発展の基礎を築いた渋沢栄一氏を尊敬していたので、今回の1万円札の肖像採用は単純に嬉しいです。これを機会に渋沢栄一に注目が集まり、ゆくゆくは大河ドラマにならないかな・・・と妄想したり(笑)


www.nikkei.com

 

さて、その渋沢栄一氏が設立に関わった企業の中には交通関係の企業も多数含まれています。例えば海運業では東海汽船の前身となった東京湾汽船の株主だったり、日本郵船の取締役だったりしますし、鉄道関係では北海道炭礦鉄道や日光鉄道、北越鉄道など後に国有化されて国鉄→JR各社に引き継がれた路線の発起人になったり、現在の秩父鉄道や京阪電鉄などの設立にも関わるなど日本の交通史の様々な部分で関わりがあります。

これら渋沢栄一氏が関わった企業に関しては「渋沢栄一記念財団」のホームページにデータベースがありますので、一度ご覧下さい。「この企業がこんなところで渋沢氏につながっていたのか!」と驚きますよ。

www.shibusawa.or.jp

 

しかし流石に航空関係はないだろう、と思って見てたら・・・

 

航空にも関わりがありました(汗)

eiichi.shibusawa.or.jp

渋沢栄一記念財団の関連会社名変遷図の「交通・通信」の欄の中に「航空」の項目があり、それによると1927年に政府が立ち上げた「航空輸送会社」の設立準備委員会委員長を務め、翌1928年に設立された「日本航空輸送株式会社」では発起人、設立委員長となり、株主でもありました。渋沢氏が無くなられたのは1931年ですから、最晩年の87~88歳頃に設立に関わったんですねえ・・・

そしてこの「日本航空輸送」、1929年に立川飛行場をベースに運航を開始し、1931年には羽田空港に移転しています。東京~大阪や大阪~福岡と言った国内線のほかに、朝鮮や大連などを結ぶ路線も運航していたようです。その後1938年に国際航空と合併して「大日本航空」となり、国策会社として国内や占領地への民間航空輸送を一手に引き受けることになりますが、1945年8月のポツダム宣言受託によって日本の航空機は民間も含めて全て製造、運用と言った航空活動は禁止され、大日本航空も10月31日に解散します。残念ながら渋沢栄一氏が関わった日本航空輸送の系譜につながる会社は敗戦とともに消え去ってしまいました。

 

戦前の民間航空については大日本航空解散で一旦歴史が断絶した事もあって残された資料は少なく、不明な点が多くあります。渋沢栄一氏がどのような経緯で民間航空の設立に携わったのか気になりますが、ネットを少し調べた程度では分かりませんでした。航空輸送会社の設立準備委員会にも病気で出席できない日も多かったようなので、設立準備委員長の肩書はあっても主導的な立場ではなかったようです。推測ですが、航空輸送会社計画は渋沢栄一氏が主導的に設立に奔走したというよりは、象徴としての「渋沢栄一」のブランドが欲しかった航空輸送会社の設立メンバーや設立を主導した政府が渋沢氏に協力を頼んだ、と見るのが自然でしょう。

それでも様々な業界に足跡を残し「日本の資本主義の父」と言われた実業家・渋沢栄一が最後に関わった事業の一つが航空業と言うのもなんだかロマンを感じますね。機会があれば一度、東京や生まれ故郷の埼玉県深谷市にある渋沢栄一氏の資料館に行って、ゆっくりとその足跡を辿りたいものです。多分これから凄く混みそうですが・・・

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ボーイング、737MAXのシステム不具合を認める。運航再開はいつになるのか、そもそも再開できるのか。

 3月から続いているエチオピア航空の墜落事故に始まる737MAXの運航停止問題。4月に入り、おおよその事故原因が判明し、生産体制にも大きな動きがありました。これまでの経緯については過去記事もご参照ください。

 

www.meihokuriku-alps.com

www.meihokuriku-alps.com

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4月4日、エチオピア政府はエチオピア航空302便の墜落事故について、暫定の調査報告書を公表しました。それによるとパイロットの操縦はボーイングが推奨し、FAA(アメリカ連邦航空局)が承認した緊急時の手順に従っていたとしており、ボーイングに機体を制御する「MCAS(操縦特性向上システム)」に不具合が起きていなかったか調査を求めました。ボーイングもデニス・マレンバーグ会長・社長兼CEOも今後数週間のうちにMCASのソフトウェア改修の認証と実証を行うとの声明を発表し、MCASに関する訓練や教材の拡充とMCASを無効化できるよう改修を行うとしています。

 

最終報告書が出るまでには1年以上かかるので、現段階では断定されてはいませんが、一連の事故原因はMCASの不具合や誤作動にあるとの見方が強まっており、今回の暫定報告書もそれを示唆しています。

www.aviationwire.jp

 

そして4月5日。マレンバーグ会長はライオンエアとエチオピア航空の墜落事故についていずれもMCASのソフトウェアに不具合があった事を認め「人命が失われたことを申し訳なく思う」と謝罪しました。ボーイングが公式に不具合を認めた事で今後はMCASの改修と再発防止対策がいつ、どこまで進むかが焦点になります。

合わせてボーイングは737の生産機数を月産52機から42機に減産することを発表。これはまだ製造が続いてる737NGも合わせたものですが、この数字はレントン工場の雇用を維持する最小限の数字であり、ボーイングとしてもある意味「デッドライン」と言える数字。737MAXの運航を再開できない限り、新規受注も新造機の納入もできず、レントン工場には納入できずに留め置かれる737MAXが溜まる一方ですから、一刻も早い運航再開が至上命題となります。
www.aviationwire.jp

headlines.yahoo.co.jp

 

では、737MAXの運航再開はいつになるのでしょうか。737MAXの納入を再開させるにはMCASの改修と再発防止策の対応が終了し、FAAを始めとした各国の航空当局から「安全」のお墨付きをもらう事が必要になります。改修と再発防止策については今後数週間のうちに全世界の737MAXに対応するとしていますが、問題はその後の航空当局の再承認でしょう。

今回の事故では本来であれば航空機の安全をチェックし、監督するはずのFAAがメーカーとの密接過ぎる関係や後手に回った対応などが非難の対象となっている為、安易な飛行停止措置の解除はできないのではないかと思います。仮にFAAが737MAXの安全性にお墨付きを与えたとしても、中国や欧州など他の地域が追随するかどうかは微妙ですし、恐らく独自に安全性を審査してから飛行停止措置を解除、という流れになるのではないでしょうか。そう考えると737MAXの運航再開はどんなに早くても6月以降になるのではないでしょうか。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

そして今の情勢を考えると、6月の再開も難しいのではないかと思います。再審査申請をするにしても現在の機体の改修を終わらせ、再発防止策を周知徹底させてからになると思いますが、再承認の審査は通常の審査以上に厳しいものになる事が予想されます。欧州や中国、事故が起きたインドネシアやエチオピアの審査は特に厳しく審査するものと思われますので、1か月かそこらで承認されるとは思えません。ボーイングが飛行停止措置を回避するためにロビー活動を行ってたり、対応が後手に回って顧客や航空当局の不興を買い、心証を悪化させたことも考慮すると秋口までずれ込むかもしれません。

 

それでもボーイングには「737MAXを諦めて生産中止」という選択肢は取れません。737MAXはボーイングにとって生産機数の8割を占める主力機ですし、150~200席級の単通路機は最もボリュームの大きいマーケットですから、737MAXが生産中止になればボーイングの経営に深刻な打撃を与えるのはもちろん、737MAXによる代替、増強計画を立てていた航空会社の運航計画が大きく狂う事になります。何より737MAXが消えると5000機以上と言う受注残が宙に浮いてしまいます。これだけの需要をエアバス一社で賄う事は不可能であり、単通路ジェット機の著しい供給不足を招いて世界の航空業界を混乱させかねない事態になりかねません。737MAXの運航再開はボーイングにとっても、航空業界にとっても必要な事なのです。

とは言っても運航再開には絶対の安全性が担保されるべきなのは言うまでもありません。例え時間がかかってもボーイングには737MAXを安全に飛行できる旅客機にし、誠実に対応して失った信用を取り戻して欲しいと思います。737MAXの運航再開に時間がかかるようであれば、早急な代替が必要な顧客向けに737NGの生産中止を引き延ばしてつなぎの機材を供給すれば当座の代替需要とレントン工場の雇用維持が可能かと思いますので、安全第一で、顧客や市場への影響を最小限に抑える努力をしてもらいたいですね。

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JALのA350、9月1日の就航が正式決定。当日乗りに行きます(2便目だけど)

新年度がスタートした4月1日に新元号「令和」が発表され、来月の改元に向け世間はお祝いムードですね。737MAXの事故の件で進展がありましたが、当ブログも新年度一発目の記事くらいは明るい話題で行きたいと思います。

 

4月4日、日本航空(JAL)は9月に投入予定の新型機「エアバスA350-900」を9月1日から羽田~福岡線で就航させると発表しました。記念すべき初便は羽田12時10分発のJAL317便で、就航初日は羽田~福岡間を2往復運航、翌2日からは3往復する計画です。

また、初期導入の3機は機体後方に「AIRBUS A350」の文字を入れた特別塗装機となり、初号機はレッド、2号機はシルバー、3号機は緑になる予定。機内設備もJAL国内線初の全席シートモニターやコンセントを標準装備し、コンセントやUSBポートも設置、シートのインテリアも全面刷新するなどかなりガラッと変わりそうですね。新シートなど客室仕様の詳細は6月に発表される予定で、9月の就航に向けていい意味でJALさんは焦らしてくれそうです。JALのA350就航は5月24日に就航予定のANAのA380に続く新型機就航の大きな話題になりそうです。

 


www.aviationwire.jp

 

www.jal.co.jp

 

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画像は同じアライアンスのA350で代用w

 

さて、気になる初便の予約状況ですが、発表日の20時過ぎにJALのサイトを確認したら既に初便は羽田発も福岡発も満席でした。さらに福岡発の2便目も満席で、辛うじて羽田発の2便目は空いていましたがクラスJは既に満席でした。しかし、これを予約すれば「就航初日にA350に乗れる」貴重な機会・・・

 

指が急ぎました(笑)

 

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はい、取ってしまいましたA350の羽田2便目。

考えてみたら就航初日めがけて乗るなんてこと、飛行機に限らずやったことはないんですが、JALのA350は初の自社発注エアバス機という、JALの歴史上では一大イベント。ANAのA380は長距離国際線だから初便狙いなんてスケジュール的にも金銭的にも無理ですが、国内線なら何とかなりますし、こんな歴史的な機会はそうそうないと思い、思い切って予約することにしました。初便まではまだ5か月近くありますが、今から楽しみです。

それはそうと、予約を取った2便目の福岡空港到着は20時なので、その日のうちに富山に戻るのは不可能です。月曜は当然仕事なので、最低でも半日は休みを取らないと・・・それがちょっと不安要素です。

 

ちなみに初便の予約ですが、今回発売されたのは価格の安い「先得割引」分のみ。もう少し高い「特便割引」や「ビジネスきっぷ」、もっと高い普通運賃は2か月前、つまり7月1日の発売なので、どうしても初便に乗りたい方はまだチャンスはあります。また、翌9月2日以降は普通席でしたら空席はありますので、初日狙いでない方は翌週末狙いで乗られてはいかがでしょうか。

それとA350程話題にはなっていませんが、今年のJALはもうひとつ、国内線用ボーイング787の就航が秋に控えています。こちらの就航日はまだ発表になっていませんし、恐らくこちらにも新シートが使用されると思いますので、通好みの方はこちらを狙っても面白いかもしれません。あるいはA350や国内線用787の投入に伴い、国内線用777の退役が本格化しますから、思い入れのある方は今のうちに乗られた方がいいと思います。こうして新型機投入や旧型機の退役に一喜一憂するのも入れ替え時期に当たる今だからこそ。乗らずに後悔するくらいなら、いっそ乗って後悔してしまった方がいいと思いますし、一種のお祭りですから楽しんでしまえばいいんじゃないでしょうか。A350に乗った時の搭乗記はブログや動画で紹介する予定です。

 

 【6月15日追記】

6月14日にA350の初号機が羽田空港に到着しました。トゥールーズからのフェリーフライトにはパイロット出身の植木会長が同乗し、羽田空港では整備士出身の赤坂社長らが出迎えて、植木会長から赤坂社長に紙製のログブック(航空日誌)を手渡すという「演出」も(実際にはA350のログブックは電子化されており、紙製のログブックは使わないそうです)

植木会長は初号機の出発までに機内や機体を見ないように努めてきたそうですが、それを知ってか知らずか、他の役員が「ネタばらし」していたそうです(笑)このエピソードだけでもJAL社内でもお祭りムードなのが分かります。

 

www.aviationwire.jp

 

機内やシートなどは20日に公開されるそうです。JAL本体としては787以来の新型機ですし、全席シートモニターやシートも一新されるようですので、今から発表が楽しみです。植木会長のように搭乗日まで事前情報を入れずに楽しみに待つという選択肢もありますが、多分我慢できずに見てしまうだろうなあ・・・

 

【6月21日追記】

やっぱり我慢できませんでした(笑)

 

6月20日に機内が公開されたA350ですが、その出来栄えは中距離国際線用と言ってもいい位手が加えられたものでした。やはりシートは新開発の物で、事前のアナウンス通り全席シートモニターや充電設備が設けられている他、ファーストクラスではマッサージ機能を装備し、モニターでは垂直尾翼に取り付けられた機外カメラから外の様子も見られるなど、国内線専用機にしては装備が凄すぎます。さらに飛行時間の短い国内線だとビデオプログラムが視聴途中で到着して見れなくなる事も多々ある事を考慮し、中断時に発行された8ケタの番号を次回搭乗時に打ち込むと続きが見れるという機能も付けるなど、細かいところに手が届くサービスもやっています。


trafficnews.jp

 

www.aviationwire.jp

 

 JAL本体としては787以来久しぶりの新型機であり、旧JASのA300を除けば初めてのエアバス機と言う歴史的な機種でもありますから、シートや設備も力を入れてくるだろうと思いましたが、正直言って予想以上でした。恐らく今後導入される国内線用787もこれに準じた設備になるでしょうし、国際線用のA350-1000型もシートやサービスは相当力を入れて来るのではないかと思います。

最近のJALとANAの競争は、少なくとも国内線に関しては価格競争からシートモニターや機内WiFi、上級クラスなどのサービスクオリティ合戦にシフトしている感があります。価格競争ではLCCに分がありますし、フルサービスキャリアが値下げ合戦をやってもブランド価値の毀損を招くだけ。サービスの質を高めて価格以上のクオリティを提供するのがフルサービスキャリアの戦い方だと思いますし、そう言う意味では今回のJALのやり方は正しいと思いますし、期待以上のものを出してきたなと思います。9月1日に乗るのがますます楽しみになって来ました。

 

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大韓航空のナッツ問題から考える飛行機のピーナッツアレルギー問題

 

「ナッツリターン事件」の大韓航空、またもやナッツ絡みのトラブル

昨日何気なしにツイッターを見てたら、大韓航空がまたナッツ絡みでトラブルを起こしたという記事を発見しました。その記事によると、アメリカのジョージア州アトランタ在住の10代の兄弟がマニラに行く際、ピーナッツアレルギーがある事を伝えたにもかかわらず仁川~マニラ間の大韓航空便でナッツが提供され、大韓航空の職員から「ナッツの提供を受け入れるか、飛行機を降りるか選ぶように」言われた結果、押し問答の末にアトランタに引き返したとの事。

その後兄弟の家族は大韓航空に払い戻しと補償を要求しましたが、大韓航空は「デルタ航空との関係が悪化することを避けるため」3月25日から国内外の全路線でナッツの提供を中止したそうです。該当の大韓航空便がデルタ航空とのコードシェアだった事や、アトランタ~仁川間のデルタ航空便では兄弟に配慮してナッツの提供を取りやめていた事も今回のナッツ撤去に関係していたかもしれません。

 大韓航空とナッツと言うと2014年12月のいわゆる「ナッツ・リターン事件」を思い出す方も多いと思いますが、どうも大韓航空はナッツと浅からぬ縁があるようです。

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this.kiji.is

 

正直言ってこの記事の内容は色々と突っ込みどころ満載なのですが、そもそも何であらかじめアレルギーの事を伝えていたにも関わらずナッツを出し、しかも嫌なら飛行機を降りろと言う話になったのか、この少年のアレルギーの度合いが命に関わるほど深刻なものなのか、なぜ今回のトラブルから全便のナッツ提供中止にまで拡大してしまったのかなど、不明な部分が多すぎます。この記事だけでこの問題の是非を判断するのはちょっと難しいですし、他の新聞社や大手ニュースサイトで取り上げられ、詳しい情報が分かってからでないと詳しく書くことはできないかなと思います。

 

【4月3日追記】

ロイター通信や報道ステーションなどでもこの問題が取り上げられ、だんだん流れが分かってきました。他の記事でも「飛行機を降りるか、ナッツの提供を受け入れるか」と大韓航空側から二者択一を迫られたと記載があるので、どうやらこの対応は事実の様です。記事を見る限りでは、この問題はまずアメリカ側で報道されたのちに韓国側でも取り上げられ、世論の非難を浴びた大韓航空が28日に謝罪とナッツ提供の中止に追い込まれた、という流れの様です。大韓航空では2017年にもニューヨーク行きの機内でピーナッツアレルギーのある子供にマカダミアナッツを提供して呼吸困難になったことがあり、今回騒ぎが大きくなったのも2017年の事件や「ナッツリターン事件」で世間を騒がせた中での「ナッツ」に関わる不祥事だったのも大きかったのではないでしょうか。

今回の問題では大韓航空のみならず、提携先のデルタ航空も「今回の問題を調査するために協力している」との声明を発表するなど、事前に大韓側に通知したにも関わらずとばっちりを受けており、「デルタ航空との関係が悪化することを避けるため」というナッツ撤去の理由もあながち的外れでもなさそうです。いずれにせよ、大韓の対応が自らのブランドのみならず、提携相手のデルタのブランドにも傷をつけてしまった事に変わりはなく、これを機会にアライアンス内での情報共有や、アレルギーや障害を持つ利用客への対応の統一など、再発防止策を考えて欲しいですね。

jp.reuters.com


headlines.yahoo.co.jp

 

カタール航空は世界150以上の都市へ就航!

 

 結構対応してくれる?機内食のアレルギー対応

で、今回取り上げたいのは機内食のアレルギー問題について。有り難いことに私は特にアレルギーはないので食事で困る事はないのですが、甲殻類やそば、卵や小麦など世の中には食物に関するアレルギーを持っている方は少なくありません。普段の生活ではアレルギーの食材を避ける事は出来ますが、問題なのが飛行機の機内食。特に長距離の国際線では逃げ場のない狭い空間に長時間いるわけですし、提供される食事の種類も限られますから、事前にアレルギー対応の機内食を依頼するか、事前に持ち込むかしか回避する方法はありません。

それ故大抵の航空会社ではアレルギー対応の特別機内食を用意しており、例えばANAではフライトの24時間前(日本到着便は48時間前)、JALでは72時間前までに電話で予約すればアレルギー食材を取り除いた機内食を準備してもらえます。但し、種類は7大アレルゲン要素(小麦、そば、乳製品、卵、落花生、エビ、カニ)を除いたものと、27品目のアレルゲン要素を除いたものの2種類だけで、例えば甲殻類はNGだけど蕎麦や小麦は大丈夫という人でも自動的に蕎麦や小麦なしのメニューになるなど不便な面もあります。まあ、個々の状態に配慮した機内食をきめ細やかに提供、となると手間やコストが馬鹿にならないので仕方のない部分はあるのですが・・・

www.ana.co.jp

www.jal.co.jp

 

実はかなりヤバい「ピーナッツアレルギー」世界の航空会社の対応は?

で、問題のピーナッツアレルギーですが、調べてみたら他のアレルギー以上に深刻な食物だったようで、アレルギー持ちの人はごく微量のピーナッツでもアレルギー反応を起こすようです。発症すると全身蕁麻疹や呼吸器症状、アナフィラキシーショックなどの症状が出て、ピーナッツに触れたり粉を吸い込んだだけでも発症してしまう為、相当気を使わなければならない食材の様です。

alle-net.com

 

そして各航空会社のピーナッツアレルギーの対応を調べてみると、これまた他の食物以上に気を使っていることが分かります。ANAやJALでは機内食でのピーナッツの使用を取りやめており、ANAはフライトの96時間前、JALでは2週間前までに依頼すれば座席の特別清掃を実施してできる限りのナッツ類の除去に協力してくれます。

ただし、特別清掃も実施対象は国際線と一部の国内線のみであり、大気中の浮遊物などのアレルギー物質そのものまでは除去できません。また、機内食でピーナッツを排除しても、他の乗客がピーナッツを持ち込むことまでは禁止できませんから、ANAもJALも機内からピーナッツを完全に排除することはできないとしており、アレルギー持ちの人自身にも防護マスクや薬や注射を持ち込むなど自衛策も取って欲しいとしています。

www.ana.co.jp

www.jal.co.jp

 

その他の航空会社だとシンガポール航空は2018年4月からスナックとしてのピーナッツの提供は取りやめていますが、シンガポール航空名物のサテイ (鶏肉や羊肉などの串焼き)にピーナッツソースを使用している関係もあって、ピーナッツ自体の機内食からの完全排除は行っていません。

https://www.singaporeair.com/ja_JP/jp/travel-info/requests/passengers-with-nut-allergy/

 

また、台湾のエバー航空ではピーナッツアレルギーの症状自体は認識しているが、ピーナッツを使用した食品やピーナッツ成分の入った食材は幅広く使用されており、完全排除は不可能と言うスタンスです。

www.evaair.com

 

エアカナダでは段階的にピーナッツを使用したスナックを廃止していますが、機内食でのピーナッツの完全排除やピーナッツを除去した特別機内食の対応は行っていないようです。また、事前に申請すればピーナッツアレルギーを持つ乗客の周辺の座席でピーナッツの提供を控える、客室乗務員が周辺席の乗客にピーナッツの摂取を控えるよう説明するなどの対応を行ってくれるようです。

www.aircanada.com

 

ユナイテッド航空では個包装のピーナッツの提供は廃止しているが機内食からのピーナッツ成分の完全排除は不可能である事、事前に相談があれば周囲の乗客にピーナッツを含んだ食品を開封したり、食べたりするのを控えてもらうようにお願いすることはできるとしています。

https://www.united.com/web/ja-JP/content/travel/specialneeds/needs/food-allergies.aspx

 

で、問題の大韓航空とデルタ航空の対応は?

 ちなみに、今回の騒動の当事者の大韓航空とデルタ航空の対応ですが、大韓航空はピーナッツは普通に提供しているので除去は不可能。搭乗する場合は事前にアレルギーについて申し出、搭乗前に同意書に署名する事、基本的に特別な対応はしないが、空席の場合は席を離すなどの配慮はするとしており、あまりピーナッツアレルギーに対して特別な配慮はしていなかったようです。これなら大韓航空がナッツの提供を控えるのを拒んだり、特別な対応をしていなかったのも仕方がないのかなと思います。

www.koreanair.com

一方のデルタ航空ですが、ピーナッツアレルギーがある事を事前に申し出れば、その搭乗便でピーナッツ類の提供はしないそうです。また、希望すれば搭乗前にゲート係員が座席周辺の清掃を行うなど、アレルギーの申し出があれば最大限配慮してくれるようです。同じスカイチーム内の航空会社でも対応は違っており、今回の問題が起こったのは航空会社によるアレルギーへの対応や理解の差と、乗客サイドと航空会社サイドの認識の差が理由の一つなのかなと思います。


pro.delta.com

 

 

まとめ

こうしてみると航空会社によって対応には差がありますが、共通しているのはピーナッツアレルギーの症状や危険性は認識しており、可能な限りの配慮はするという姿勢、他の乗客のピーナッツ持ち込みは止めることはできない事、機内からのピーナッツ成分の完全排除は不可能であり、乗客側にも自衛策を求めている事です。それでも以前に比べるとピーナッツアレルギーに対する航空会社の理解は広がっているようで、ピーナッツを機内食から外している航空会社が結構あった事に驚きました。言われてみれば、最近飛行機の機内でピーナッツの小袋はあまり見なくなったような・・・

もちろんアレルギーを持つ乗客への配慮と言う面が大きいのですが、一種のリスク回避の側面もあるかも知れません。アレルギーが原因で乗客と航空会社との間でトラブルになったのはこれが初めてではなく、昨年12月にもスペインのイベリア航空がピーナッツアレルギーを持つ少年がいる家族がナッツの提供中止やアレルギーを持つ乗客がいることをアナウンスして欲しいと伝えたところ、CAが拒否して降機せざる得ず、イベリア航空が大きな非難にさらされたことがありました。

 


news.livedoor.com

 

アレルギー持ちの乗客にしてみれば命に関わる事なので一定の配慮を求めるのは当然ではありますが、航空会社もアレルギー持ちの乗客だけを特別扱いするわけにも行きませんし、それで他の乗客が不利益を被るわけにも行きません。航空会社によってピーナッツアレルギーに対する認識や対応に温度差があるのも、アレルギーを持つ乗客への配慮と他の乗客との公平性との板挟みになっている結果とも言えます。

それでもゆくゆくはアレルギーへの配慮は強化しないといけないのではないかと思います。国内移動や陸続きの国への移動なら車や鉄道など飛行機以外の手段を使う事も可能ですが、日本のような島国や、太平洋横断や大西洋横断などの長距離移動になると飛行機以外の選択肢はあり得ません。アレルギーを理由に移動の自由が制限されるのは健全とは言えませんし、機内食からピーナッツを取り除くことでそのリスクが軽減されるのであれば、仕方のない事なのかなと思います。

とは言え、アレルギー持ちだからと理不尽な要求を航空会社にするのは論外ですし、航空会社にも出来る事とできない事があります。難しい問題ではありますが、下手に対立を煽るのではなく、アレルギー持ちの人もそうでない人も快適な空の旅が楽しめるよう、お互い配慮して行けるようになればいいですね。

 

↓アレルギーとは無縁の私ですが、仕事上、アレルギーを持ったお客様の対応を求められることはあります。周りにアレルギー持ちの人がいたり、アレルギー症状の疑いがある場合は一読してもいいのかも知れません。

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