〜Aviation sometimes Railway 〜 航空・時々鉄道

航空や鉄道を中心とした乗り物系の話題や、「迷航空会社列伝」「東海道交通戦争」などの動画の補足説明などを中心に書いていきます。

航空会社や鉄道会社で活躍した昭和の運輸官僚

随分と間が空いてしまいましたが、迷航空会社列伝「東急の空への夢」第4話をアップしました。今回からYouTube版は映像の比率が多いものを、ニコニコ版は静止画の比率を増やして代理の人のセリフを増やしたものをアップしています。YouTubeのスパム対策の一環ではありますが、せっかくの機会なので単に画像を差し替えるだけでなく、多少は手直しをしていますので、両者を見比べて違いを楽しんで頂ければと思います。

 


東急の空への夢 第4話「至誠監督官庁と競合相手に通ず」

 

さて、このシリーズの動画内ではしばしば運輸省の事務次官出身者が登場します。今回の動画でも登場した全日空社長の若狭得治氏や、日航社長の朝田静夫氏、今回の動画内ではまだ現役の運輸省職員ですが住田正二氏や中村大造氏など、この時代は事務次官経験者が退官後、民間の鉄道会社や航空会社の社長として転身するケースが少なくありませんでした。官僚のトップである事務次官まで登り詰めただけあって、社長転身後も単なるお飾りではなく、転身後の会社を大きく発展させたり、赤字の鉄道会社を立て直したりと民間出身者顔負けの活躍をされています。今回はそんな航空会社や鉄道会社で活躍した昭和の運輸事務次官経験者をご紹介しましょう。

JALで行く東京ディズニーリゾート(R)

 

 

朝田静夫(次官在任時期1961.7~1963.4 日本航空社長など)

東大法学部出身で、当初は逓信省(戦後郵政省を経て現在の総務省)に入りましたが、戦後の省庁再編で運輸省に移りました。運輸省では官房長や海運局長といった出世コースを順調に歩み(戦後すぐのころは海運局の影響は大きく、エリートコースとされていました)、1961年に運輸事務次官に登り詰めます。事務次官時代には海運業界再編などの実績を上げたのち、1963年4月に退官しました。

その後は日本航空に天下り、専務、副社長を経て1971年、日本の民間航空再建に尽力した松尾静麿の後を受けて社長に就任します。朝田時代の日航は日本の経済発展に合わせて世界を代表するフラッグキャリアへと駆け上がった時期であり、彼自身もニューヨーク乗り入れや日ソ、日中路線の開設交渉で手腕を発揮しました。後述する全日空社長の若狭得治とは3年差の先輩後輩の間柄でしたが、両者の仲は犬猿の仲といわれるほど悪く、若狭による全日空の躍進は朝田への対抗心もあったのかもしれません。

その一方で1972年のニューデリーやシェメレーチェヴォの墜落事故や、ドバイやダッカなどのハイジャック事件など、朝田が社長の時代は日航の安全体制が問われた時期でもありました。1981年に社長を退任し、相談役となった後は日本航空協会会長や国際交通博覧会協会会長など多数の公職を歴任しました。若狭ほど派手な活躍はありませんが、日航を世界の主要キャリアと張り合えるほどの地位に押し上げたのは彼の大きな功績と言っていいでしょう。1996年11月、85歳で死去。

 

若狭得治(次官在任時期1965.6~1967.3 全日空社長→会長→名誉会長)

この方は動画内でも触れていますし、全日空の歴史を語るうえで絶対に外せない人ですから、全日空時代の功績については言うまでもないかと思います。若狭は富山県出身で1938年に逓信省に入省、朝田と同じく省庁再編で運輸省に移っています。戦後すぐの時期は結核にかかり3年間の療養生活を余儀なくされますが、1953年10月に大臣官房考査室長として復帰。その後は神戸海運局長、東大部長、海運局次長→局長と海運畑を歩き、海運局長時代には海運会社の統合にその手腕を振るい、海運業界の体質強化を図りました。ちなみに海運局次長時代に局長だったのが朝田であり、どういうわけかこの二人には因縁めいたものがあるようです。

1965年6月に運輸事務次官に就任し、国鉄料金の値上げ問題や船員ストの調停、日米航空協定の改定や日ソ航空協定の締結、新東京国際空港の候補地選定など様々な運輸関係の問題に携わり、1967年3月に退任しました。

このころの全日空社長の岡崎嘉平太は、自分の後継として若狭に目をつけており、猛烈にアプローチしたそうですが、事務次官経験者の民間企業への天下りは退任後2年たってからという不文律があり、すぐの就任は不可能でした。このため若狭が全日空に顧問として入社したのは1969年であり、副社長を経てM資金詐欺に引っかかって辞任した大庭哲夫の後任として1970年に社長に就任します。

全日空社長となった後は国際チャーター便進出や大型ジェット機の導入、ホテル事業の展開などの経営の多角化を図り、二流会社扱いだった全日空を「国内線のガリバー」として大きく発展させ「全日空中興の祖」と呼ばれるようになります。1976年のロッキード事件で外国為替管理法違反、議院証言法違反の容疑で逮捕されますが、全日空社員は若狭を追い出すどころか最大の功労者を守ろうと一致結束します。社長の座こそ退かなければなりませんでしたが、その後も会長として引き続き全日空の発展に尽力し、念願の国際線開設を見届けます。

1991年に名誉会長に退いた後も全日空に隠然たる影響力を持ち、「全日空のドン」と呼ばれましたが、1997年の次期社長をめぐるお家騒動で相談役に退き、以後は表舞台から身を引きました。2005年12月、肺炎のため91歳で死去。

 

佐藤光夫(次官在任時期1967.3~1968.6 京成電鉄社長)

f:id:meihokuriku-alps:20190414174921j:plain

 前述の2人が会社の発展に尽力したとすれば、佐藤氏は経営不振の会社の再建に尽力した運輸次官経験者です。佐藤は長野県諏訪市出身で、東京商科大学(現一橋大学)を卒業後、実業に関係のありそうな省庁を希望して鉄道省に入省。この方も省庁再編で運輸省に移ってますが、前述の2人とは元の所属が違います。大阪陸運局長時代は白タク禁止を実現しましたが、自宅前でデモが行われるほど猛反発を喰らうも、粘り強い交渉を続けて実現しました。1965年には航空局長に就任し、若狭の下で日米航空協定改定や日ソ航空協定の日本側代表を務めます。

その後海上保安庁長官を経て1967年3月、若狭の後任の運輸事務次官に就任します。1968年の退官後は運輸経済研究センター理事長や日本民営鉄道協会理事長、国際観光振興会会長などを歴任しますが、民間企業とは無縁の世界にいました。

 

1979年6月、日本興業銀行から京成電鉄副社長に転じていた村田倉夫に懇願され、経営不振に陥っていた京成電鉄の社長に就任します。当時の京成電鉄は前任の川崎千春社長のもと観光事業や小売業、不動産事業など多角化路線を進めていましたが、オイルショック後の不況や行き過ぎた不動産投資、開港後の空港アクセス利用を見込んでいた成田空港の開港が遅れた上に空港直結ができなかったことなどで1978年には株式配当が無配に転落するなど深刻な経営危機に陥っていました。さらにこの頃の京成は労使対立も激化しており、京成線の廃線も検討される程深刻な状態でした。要は佐藤が招聘されたのは運輸省時代の経験と人脈を当てにした京成電鉄の再建だったのです。

社長に就任した佐藤は副社長の村田との二人三脚でなりふり構わぬ再建を進めます。1980年に策定された経営再建計画では25%もの人員削減や系列百貨店の店舗整理、谷津遊園の閉演と跡地売却や津田沼の車両基地の宗吾参道への移転と跡地の売却などの資産整理など厳しいもので、特に人員削減については一時日本民営鉄道協会から脱退して春闘で独自に組合と交渉するなどメンツを捨てたなりふり構わぬものでした。こうした努力が実って1984年には債務超過から脱却し、主力の鉄道、自動車部門の黒字化も達成します。さらには傘下のオリエンタルランドがディズニーランドの招致に成功し、1983年に開業した東京ディズニーランドが大成功を納めた事も業績改善に大きく貢献しました。佐藤は1986年に村田に社長の座を譲り、会長に退きます。1990年には相談役に退いて京成の経営から離れ、1997年7月に83歳で死去。

JALで行く東京ディズニーリゾート(R)

 

中村大造(次官在任時期1976.6~1978.6 新東京国際空港公団総裁、全日空社長)

三重県桑名市出身で、東京帝大にまで進みましたが、1944年に学徒動員で海軍に入隊、戦艦「長門」にも乗艦するなど次官経験者には珍しく兵役を経験しています。

1946年に運輸省に入省した後は人事課長、観光部長、自動車局長、航空局長を歴任します。ちょうど全日空とTDAが長崎線開設で揉めていたころの航空局長ですね。1976年6月に運輸事務次官となりますが、ちょうどこの頃はロッキード事件で政財界が揺れていた頃。必然的にロッキード事件解明に大きく関わる事になります。また、中村が次官を務めていた頃は成田空港開港を巡って闘争が激化していた頃でしたが、講義に訪れた反対派を歴代運輸事務次官で唯一直接応対し、コーヒーも出してもてなすなど、人柄の良さが分かるエピソードもあります。1978年6月に退官した後は国鉄常務理事を務めたのち新東京国際空港公団副総裁→総裁を務めました。

f:id:meihokuriku-alps:20190310204719j:plain

その後1983年に次期社長含みで入社したものの1年で退社した住田正二に代わり、全日空第7代社長に就任します。社長在任中に「45・47体制」が撤廃され、1986年に悲願の国際線進出を果たします。3月3日に成田~グアム線の就航式典であいさつをしますが、その場所はくしくもかつて自身が総裁を務めた成田空港であり、創業以来の夢を自身の手で、ゆかりある場所で実現できたことに感無量だったのではないでしょうか。

しかし、残念ながら中村氏はその後の全日空の発展を見届けることはできませんでした。翌年の5月6日に肺の石灰化の為現職のまま死去。まだ67歳の若さでした。

 

住田正二(次官在任時期1978.6~1979.7 JR東日本社長)

この方も動画内で重要な地位を占めていますが、他の方に比べると必ずしも順風満帆なキャリアではなかったようです。

住田は1922年に神戸市で生まれましたが、父が呉造船所社長だった関係で本籍は広島県呉市にありました。東京帝大に進学したものの、2年次に学徒動員で招集、大邱に二等兵として配属されたのち幹部候補生試験を受けて合格、浦和で勤務の後終戦を迎えます。

戦後は大学に復学し、卒業後1947年に運輸省に入省。海運総局に配属され、海運、造船業界の再建整備を担当します。この時に貸借対照表や損益計算書について勉強しており、1955年に防衛庁に2年間出向しています。その後航空局監理部長や鉄道局国鉄部長、官房長や鉄道監督局長などを歴任して1978年6月に運輸事務次官に就任します。

 

ここまでは順風満帆で次官も2年務めるのではと言われましたが、運輸大臣の森山欽司と対立して1年で退官してしまいました。退官後は運輸経済研究センター理事長に就任し、その後次期社長含みで全日空に常勤顧問として迎えられます。しかし、ここでも会長の若狭と対立してしまい1年で退社。TDAの時もそうでしたが、どうもこの人は言い争いで敵を作りやすいタイプだったのかも知れません。

その一方で1981年に第二臨調専門委員となり、国鉄、電電公社、専売公社の三公社民営化や特殊法人見直しに尽力します。1983年からは国鉄再建監理委員会の委員の一人となり、国鉄分割民営化を答申する立場となりました。運輸省時代から反骨気質のある人でしたから、ある意味行政改革は住田氏にとって適任だったのかも知れません。

 

そして1987年、運輸大臣だった橋本龍太郎の要請を受けてJR東日本の初代社長に就任します。JR時代の住田氏は組織のスリム化と現場への権限移譲、技術面の強化、合理化と効率化の推進などJR東日本の経営基盤確立に辣腕を振るいました。1993年に会長に退き、1996年に最高顧問、2000年に相談役となり、2017年12月に老衰の為95歳で死去。波乱万丈な人生でしたが、一番長寿だったのもこの人でした。

 

杉浦喬也(次官在任時期1982.6~1984.7 国鉄総裁、全日空会長など)

この方も退官後のキャリアは紆余曲折を辿りました。1925年に東京都大田区で生まれましたが、4歳の時に父親と死別し、母親が美容師となって女手一つで育てられたようです。東京大学卒業後、1951年に運輸省に入省しますが、この時の動機に後に日本航空社長となる山地進がいます。1969年に国鉄部長となりますが、この頃に後に国鉄分割民営化で大きな関りを持つ運輸族議員、三塚博や加藤六月と親しくなりました。

その後1982年6月から運輸事務次官を2年務めたのちに退官し、港湾近代化促進協議会会長に就任しますが、1985年6月、国鉄分割民営化に消極的だった第9代国鉄総裁の仁杉巌が中曽根総理の強い意向で更迭され、その後任として第10代国鉄総裁に就任。運輸大臣となった三塚や、松田昌士、井手正敬、葛西敬之の「国鉄改革三人組」らとともに国鉄分割民営化にあたる事になります。国鉄の終焉を見届けた後はJR東日本の初代社長に就任する話もありましたが、結局はJR東日本の社長は住田となり、杉浦は国鉄清算事業団総裁となりました。

 

その後1990年には全日空に転じ、翌年には若狭の後任の会長となります。全日空時代の杉浦は国際線拡大を進めますが、軌道に乗らず赤字続きとなってしまいます。最後は若狭同様、全日空の後継社長を巡るお家騒動で会長を退き、相談役になります。2008年1月、82歳で死去。

 

 

まとめ 

以上、昭和時代の運輸事務次官経験者の民間での活躍をご紹介しました。こうして見ると民間転身後の活躍は決して腰掛けではなく、運輸省時代の経験や人脈を生かして転身先でも活躍するケースが多い事に気づきます。また、過去の次官経験者と退官後も関わりのあるケースも多く、特に全日空に転じた次官経験者が多いのは、大物次官だった若狭氏の影響が大きかったからでしょう。

平成の時代に入ると官僚の民間への天下りがやり玉に上がったこともあり、次官経験者の民間企業への転身は鳴りを潜めました。省庁再編で国交省になった後は次官経験者は特に目立つからか、特殊法人や特殊会社に転じるケースが多いようです。昭和の時代は優秀な経営者を多く輩出した運輸省。現在では国交省出身者が大手企業で辣腕を振るう、と言う事はもうなさそうですが、日本の交通産業発展の礎を築いたのも官僚出身者だったのもまた事実。戦後の混乱期で辣腕を振るった剛の者だったからこそ、民間でもその能力を遺憾なく発揮できたわけですが、果たして、今の中央省庁の官僚にそんな気骨のある人はいるもんですかねえ・・・

 

 

 

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 にほんブログ村 その他趣味ブログ 航空・飛行機へ
にほんブログ村