〜Aviation sometimes Railway 〜 航空・時々鉄道

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鉄道連絡船がルーツの「宇高航路」の終焉・・・109年の歴史を振り返ってみた

・刀折れ、矢尽きた形の四国フェリー

11月8日、岡山県の宇野と香川県の高松を結ぶ「宇高航路」を唯一運行する四国フェリー(運航は2013年から子会社の四国急行フェリーに移管)は12月中旬をメドに宇野~高松航路を廃止する見通しだと報道されました。今のところ四国フェリー側からは正式な発表はありませんが、全国・地方問わず複数のメディアから報道されている事を見ると廃止の方針は間違いないと思います。

 

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報道の通り、12月中旬に四国フェリーが廃止されると宇野~高松航路を運行する会社はなくなり、国鉄の宇高連絡船以来続いていた「宇高航路」は109年の歴史に幕を下ろすことになります。そこで今回は宇高航路の歴史を振り返ってみたいと思います。

 

↓宇高航路についてはこちらの動画もご参照ください。

 

  

・鉄道連絡船から始まった宇高航路

宇高航路の原型となったのは1903年(明治36年)3月18日に開業した山陽汽船商社の岡山~高松航路と尾道~多度津航路でした。この会社は当時山陽本線を経営していた山陽鉄道の子会社であり、山陽汽船商社の航路も鉄道連絡船の性格が強いものでした。

その後、1906年(明治39年)12月1日の鉄道国有化法に伴い山陽鉄道が国鉄に買収され、山陽汽船商社の航路も国有化されます。さらに1910年(明治43年)6月12日の宇野線岡山~宇野間の開通に伴い、岡山~高松、尾道~多度津の両航路を統合する形で宇野~高松間に鉄道連絡航路を開設。これが宇高航路の始まりとなります。以来宇野は四国への玄関口として栄え、鉄道以外の長距離旅客輸送がなかった戦前から戦後すぐにかけて宇野~高松航路は本州と四国をつなぐ重要な動脈として機能しました。

 

・モータリゼーションで民間フェリーも参入・戦国時代に

宇高航路の重要性は戦後になっても変わりませんでしたが、国鉄の連絡船は甲板に貨車を積み込む関係上、自動車輸送ができないと言う弱点がありました。自動車が本格的に普及し始めた1950年代に入ると、宇野〜高松航路に自動車航送をターゲットにした民間フェリー会社の参入が相次ぎます。

 

最初に参入したのは四国フェリーで、1956年5月から運航を開始。ただしこれは貨物航路のみで、旅客輸送は1966年からになります。現在の四国フェリーの主力は小豆島航路ですが、最初に開設したのは宇野〜高松航路であり、いわば「創業の地」と言えます。

次に1959年に津国汽船が日本通運と組んで「通運フェリー」の名前で参入します。先程の四国フェリーと違い、旅客自動車輸送もOKになったと言う点では現在の形に近いと言えますが、車なしの徒歩利用客は乗船を認められませんでした。

そして1961年8月、3番目の事業者として宇高国道フェリーが参入。こちらは当初から旅客輸送も徒歩利用もOKとなり、宇高航路は国鉄、四国フェリー、津国汽船(日通フェリー)、宇高国道フェリーの4社がしのぎを削る激戦区となります。

 

1985年の時刻表を見てみると、四国フェリーは30分毎、津国汽船は40分毎(1984年から自社運航に切替、愛称も本四フェリーに。但しこの時も徒歩乗船はお断り)、宇高国道フェリーは20分毎のいずれも終夜運航とかなりの高頻度で運航されていた事が分かります。

一方の国鉄連絡船は岡山〜宇野間の列車の到着に合わせて運航され、概ねフェリーとホバークラフトが1時間おきに運航されていました。岡山〜宇野間は快速列車で約33〜35分、連絡船は1時間強。乗り換え時間を含めても岡山〜高松間は1時間50分弱で結ばれていました。

同じ宇高航路でも国鉄路線の連絡輸送が使命だった宇高連絡船と自動車輸送が主体の民間3社は立ち位置が違うので大きな対立にはなりませんでしたが、民間3社間、特に四国フェリーと宇高国道フェリーとの競争はかなり苛烈だったようです。

 

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・瀬戸大橋後も続く宇高航路の壮絶な客取り合戦

こうした中、1988年4月10日に瀬戸大橋が開通し、本州と四国が陸路で結ばれる事になりました。JR本四備讃線の開業に伴い、宇高連絡船は前日の4月9日に廃止。その後しばらくは宇野の地域輸送用に高速艇が残されましたが、それも1990年3月に休止され(廃止は翌1991年3月)、宇高連絡船は完全に姿を消しました。

 

一方の民間3社ですが、瀬戸大橋開通後も変わらず運航を続けます。瀬戸大橋を通る高速道路の通行料金が高く、特にトラックから敬遠された為です。

開通当初の児島〜坂出北IC間の料金は普通車5500円と高く、概ね普通車の3倍近くなる特大車料金はべらぼうに高いもの。この為自動車、特にトラックドライバーは通行料金がバカ高い瀬戸大橋よりも、割安で移動でき、船内で休憩できるフェリーを選択します。

民間3社は瀬戸大橋開通後も大きな影響を受ける事なく、相変わらず高頻度運航や運賃競争で客の取り合いを続けました。2004年には四国フェリーと津国汽船が共同運行に踏み切りますが、もう一方の国道フェリーとは相変わらずのツバ競り合い。本数も四国フェリー、国道フェリー双方1日50往復ずつ、合計100往復と多頻度運航が続きました。

 

・「休日1000円」がきっかけで衰退する宇高航路

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転機となったのは2008年10月からのETC休日割引(半額)及び2009年3月から始まったETC休日割引の上限1000円でした。この割引は瀬戸大橋にも適用されて高速料金は一気に下がり、自動車輸送は一気に瀬戸大橋に転移しました。それ以前からも瀬戸大橋の値下げや割引は段階的に行われていましたが、ETCの普及と急激な割引拡充が道路とフェリーのパワーバランスを一気に崩した格好です。

 

そして、宇野〜高松間のフェリーは急速にその勢力を縮める事になります。2008年4月に国道フェリーが50往復から37往復に減便したのを皮切りに、9月には四国フェリーが平日44往復、休日40往復に減便。そして2009年4月1日には津国汽船が宇野〜高松航路から撤退しました。ちなみに津国汽船はその後しばらくは宇野〜直島間の航路を運航していましたが、2012年に破産して消滅しています。

そして2009年12月20日、遂に四国フェリーと国道フェリーは双方とも1日22往復に減便した上で、減便の穴を埋めるべく共同運航を開始します。犬猿の仲だった2社が手を結んだ事は世間を驚かせましたが、言い換えればそれだけ宇野〜高松航路が追い込まれている証でもありました。

 

ところが2010年2月12日、四国フェリーと国道フェリーは四国運輸局に3月26日での航路廃止を申請します。共同運航開始から2ヶ月足らず、まさかの双方同時ドロップアウトです。

しかしこの時は高松市・玉野市のみならず香川・岡山両県も航路存続を求めて運動し、両県の議会も運航継続の支援を行政に求める意見書を提出します。これを受けて国道フェリーは3月4日に廃止申請を取り下げ、続いて四国フェリーも3月11日に廃止申請を取り下げたため宇高航路は一転して存続する事になりました。

 

・気が付けば運行会社は残り一社に。そして・・・

しかし、その後の支援策はなかなかまとまらず、国も「全額支援は制度上無理」と国費での支援に難色を示しました。法定協議会で運行会社とフェリーターミナルの統合、割引及び一部運賃の値上げなどの経営改善案が提示されましたが、実行に移される事はありませんでした。

そして宇高航路を運行する2社のうち、国道フェリーの命運が尽きてしまいました。2012年6月に終夜運航を中止したのち、2012年10月17日の運航を最後に宇野〜高松間の運航を休止。その後運航を再開する事はありませんでした。ちなみに、宇高国道フェリーは会社自体はまだ残っているようで、社員は関連会社に配置転換されたようです。

 

残った四国フェリーも経営は厳しく、2013年4月から子会社の四国急行フェリーに宇高航路を移管。その後2014年7月16日に1日14往復に減便、終夜運航も取りやめました。わずか6年前は100往復、終夜運航だった事を考えると瀬戸大橋の料金引き下げの影響がいかに大きかったかがわかります。

ちなみに、この年から瀬戸大橋を含む本四架橋は他の高速道路同様全国の運賃プール制に組み込まれ、架橋部分の割増料金を除いた分は他の高速道路と同水準となりました。一般料金はほぼ変わりませんが、ETC割引だと二千円前後となり、価格面でのフェリーの優位性はほぼ失われました。

その後2015年3月には10往復、2017年4月には5往復に減便され、かつて4社合わせて何十隻もの船が行き交っていた宇高航路はたった一隻での運航にまで縮小してしまいました。そう考えると今回の廃止は時間の問題だったのかも知れません。

 

・まとめ

報道の通り、四国フェリーが撤退すれば長年本州と四国を結ぶメインルートだった「宇高航路」は名実ともに終焉を迎える事になります。減便を繰り返しながらジリ貧となっていった末期の宇高航路の姿を思うと「刀折れ、矢尽きる」と言う表現が当てはまります。

宇高航路消滅のきっかけとなったのは瀬戸大橋の急激な値下げであり、これだけを見ると宇高航路は「国の政策に振り回されて追い込まれた」と取れます。しかし、それ以前は瀬戸大橋の高い通行料金のおかげで大きな影響を受ける事なく経営を続けられた訳であり、「国の政策のおかげで延命できた」とも取れます。いずれにしても、平成に入ってからの宇高航路は国の政策に左右された歴史と言えるでしょう。

 

行政の支援にしても2015年に沿線自治体が「船舶修繕」の名目で拠出した年間3000万円の補助金が全てであり、それも2017年度からは1500万円に減額されました。この程度では航路存続には焼け石に水であり、将来的な船舶の更新も考えると先が見えない状態でした。夏頃から自治体に採算悪化を理由に宇高航路の撤退を示唆しており、四国フェリーにとってはこれが「最後通告」だったのかも知れません。

前回の時と違い、今回は本数も少なく廃止になっても大きな影響はないと思います。それでも瀬戸大橋を渡れない原付や自転車の利用者にとっては移動手段が失われる事になり、影響はゼロではありません。今回の宇高航路の廃止は海上輸送の存続の意義や支援のあり方を投げかけているのではないでしょうか。鉄道に比べると地域が限られる航路の存続問題はどうしても影に隠れがちですが、それでも地域の生活に必要な航路については何らかの支援が必要な時期に来ているのではないでしょうか。

 

【11月11日追記】

四国フェリーから正式に航路休止の発表がありました。四国運輸局に12月16日からの航路休止を届けており、最終運航日はその前日の12月15日(日)となります。休止の理由として四国フェリーは「度重なる瀬戸大橋通行料金のETC割引拡充により輸送数量が激減しており、コスト削減も限界だった」としており、無念さがにじみ出ています。とりあえず航路廃止ではなく休止なので、将来の航路復活の可能性は一応残されてはいます。しかし、宇高国道フェリーの例を考えても将来環境が激変してフェリー需要が復活したり、行政が航路存続に足りるだけの支援を確約しない限りは航路復活はないでしょう。このまま新たな事業者が現れない限りは、12月15日で「宇高航路」109年の歴史は幕を下ろすことになりそうです。

 

www.shikokuferry.com

 

trafficnews.jp

 

今後は瀬戸大橋を使う事が出来ない125cc以下の小型バイクや自転車の本州~四国間の足をどうするかという問題が発生します。とりあえず考えられるのは小豆島経由で四国に渡る方法です。前述の四国フェリーには姫路~小豆島(福田)、新岡山港~小豆島(土庄)、小豆島(土庄)~高松の3航路があるので、これらを駆使すれば何とか四国には行けそうです。また、神戸~高松のジャンボフェリーや大阪南港~東予・新居浜のオレンジフェリーといった中長距離フェリーの利用も有効ではないでしょうか。

また、宇野~高松間の移動に限れば宇野~直島航路と直島~高松航路の乗り継ぎで移動は可能です。但し、直島~高松航路は小型バイクや自転車が搭載可能なフェリーは1日5往復しかないのが厳しいところ。乗り継ぎを考慮したダイヤではないので、あまり使い勝手がいいとは言えなさそうです。

 

最後に、将来的な宇高航路復活の可能性として、明石~岩屋間を運行する「淡路ジェノバライン」の事例にも触れておきましょう。元々は2001年11月に運航を休止した富島ー明石航路を引き継ぐ目的で設立された会社で、下着・宝飾販売の「ジェノバ」が親会社です。その後2007年に明石~岩屋間の高速船事業を引き継ぎましたが、元々の航路だった富島~明石航路は2008年に休止されました。

その後、明石~岩屋間でフェリーを運航していた「たこフェリー」が2010年11月15日に運航休止となり、今回の宇高航路同様、小型バイクや自転車が淡路島に向かう手段が失われます。明石海峡大橋は瀬戸大橋同様自動車専用道路なので通行不可能。淡路島航路自体バイク・自転車積載不可のジェノバラインしか残っておらず、その後しばらく小型バイクや自転車は自走で淡路島に行けないという事態が続きました。

そんな状態が解消されたのは2015年、淡路市が小型バイク・自転車積載可能な100トン級の高速船を購入し、淡路ジェノバラインに運航委託するという方法で小型バイクと自転車の航送が再開されてからでした。これにより5年ぶりに小型バイクや自転車で淡路島に向かう事が可能となり、近年の自転車ブームと相まって淡路島一周ルートの重要なアクセス手段となって現在に至っています。

www.jenova-line.co.jp

 

将来、宇高航路が復活するとしたらかつてのようなカーフェリーではなく、淡路ジェノバラインのような小型バイク・自転車のみ搭載可能な小型の高速船という形が現実的かも知れません。とは言え、淡路島航路は「他に移動手段がなかった」という切羽詰まった事情と引受業者があったから復活できたわけで、一応は代替手段がある宇高航路は厳しいのではないかと思います。それに、これまでの行政の宇高航路に対する腰の重さを見る限り、自前で船を用意するような機外はなさそうですし・・・

残念ながら、宇高航路はこのまま「過去の思い出」となって行きそうです。

 

 

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