〜Aviation sometimes Railway 〜 航空・時々鉄道

航空や鉄道を中心とした乗り物系の話題や、「迷航空会社列伝」「東海道交通戦争」などの動画の補足説明などを中心に書いていきます。

伝説のF1レーサー、ニキ・ラウダの「飛行機野郎」としての一面

5月20日、70年代から80年代にかけてF1で活躍したニキ・ラウダ氏が亡くなりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。


headlines.yahoo.co.jp

 

正直言うと、私はF1レーサーとしてのニキ・ラウダを知りません。彼が活躍したのは私が生まれる前の70年代から80年代前半にかけてで、物心がついた頃には既に引退していたのですから。なのでここでは彼の引退後の「航空会社経営者」としての一面を取り上げたいと思います。

 

 

ラウダ航空

 

ニキ・ラウダが航空ビジネスに携わったのは1979年、F1から引退して「ラウダ航空」を設立した時でした。1975年に初めて世界チャンピオンとなり、1976年の大事故で瀕死の重傷を負うも奇跡の生還を果たして一か月後に復帰、翌年には再び世界一になるなどF1レーサーとして絶頂期を迎えていた中での突然の引退と実業家への転身、それも当時はまだ航空自由化前で規制でがんじがらめだった航空ビジネスへの参入は世間を驚かせました。

実際、創業からしばらくはラウダ航空の経営は苦戦を強いられます。世界的な金融不況で航空需要自体が冷え込んでいた事に加え、国営のオーストリア航空との路線認可における紛争、規制で思うような運航が認められないなど、ラウダ航空の経営はお世辞にも順調とは言えないものでした。機材面でも旧式のターボプロップ機のフォッカーF27フレンドシップで細々とチャーター便を運航する程度。ラウダ自身は1982年にF1に復帰しますが、ラウダ航空の経営が上手く行っていないからだという説もあるくらいでした。

しかしF1に復帰したラウダはそんな周囲の揶揄をよそに再び活躍し、1984年には3度目の世界チャンピオンに輝きました。翌1985年にはモータースポーツから完全に引退し、航空ビジネスに専念することになります。まず手始めにフレンドシップをBAC1-11に更新し、ツアーオペレーターのITAS社と提携。ツアーチャーターに活路を見出します。これが軌道に乗ると機材を当時最新型のボーイング737-300型二機に変え、1988年には念願の定期航空路線が認められます。新しくボーイング767-300ERを購入してバンコク経由シドニー線や香港線などに就航。創業当時は青息吐息だったラウダ航空は長距離国際線を運航する航空会社にまで成長したのです。

 

しかし1991年5月26日、香港発バンコク経由ウィーン行きのラウダ航空004便が空中分解事故を起こし、時代の寵児だったラウダは窮地に立たされます。ラウダは自ら事故原因を解明するべく調査に動き、逆噴射装置の誤作動が原因であると突き止めました。さらにボーイングに直接直談判して補償を認めさせるなど、いち航空会社の経営者としては異例の行動力で自社に責任がない事を証明します。

その後もラウダ航空は高いサービスとラウダの知名度を武器に順調に事業を拡大し、ボーイング777を運航するまでに成長しましたが、2000年にラウダ航空の経営権をオーストリア航空に売却し経営から手を引きます。ラウダ航空はしばらくはオーストリア航空グループの航空会社としてチャーター便を中心に存続しますが、2013年にオーストリア航空のブランドに統合され、その名前は消滅しました。

 

ニキ航空

 

しかし、これでラウダが航空ビジネスから手を引いた訳ではありませんでした。2003年にはドイツのアエロ・ロイドの子会社を買収し、今度は自らのファーストネームをつけた「ニキ航空」を設立し、航空業界に再参入します。

今度はドイツのエアベルリンと組み、当初は24.5%、のちに49.9%を出資してエア・ベルリングループの航空会社として再スタートを切りました。ラウダ航空のように長距離国際線はやらず、欧州域内を中心に機材もエアバスA320シリーズやボーイング737と言った単通路機となりました。2012年3月にはエアベルリンのアフィリエイトメンバーとしてワンワールドに加盟し、2015年にはエアベルリンと提携したエティハド航空のコードシェア便と言う形で日本路線にも就航しています(と言っても名前だけでニキ航空の機体が日本に来た訳ではありませんが)

 

しかし2017年8月25日、エティハド航空の支援打ち切りでエアベルリンが破産し、ニキ航空は再び窮地に立たされます。グループ会社だったニキ航空も売却の対象となり、最初はルフトハンザグループに売却され、傘下LCCのユーロウイングスに統合される方針でしたが、寡占化を懸念した欧州委員会が待ったをかけた為計画は断念。ニキ航空は12月14日に運航を停止しました。

その後ブリティッシュエアウェイズやイベリア航空などを傘下に持つインターナショナルエアラインズグループが買収に手を挙げましたが交渉は不調に終わります。そして最終的にニキ航空を取得したのはなんと創業者のラウダでした。この辺については当ブログでも記事にしていますので、詳しくはこちらもご覧下さい。

www.meihokuriku-alps.com

 

 

ラウダモーション

 

こうして三度航空ビジネスに参入したラウダはニキ航空の社名を「ラウダモーション」に変更し、ウィーンとベルリン・テーゲル空港を拠点に2018年3月から運航を開始しました。

但し、ラウダモーションは運航開始直後からアイルランドのLCC大手・ライアンエアーが経営に参加しており、当初はラウダモーション株の24.9%、8月には75%に引き上げており、運航面でもライアンエアーが大きく関わるなど事実上の「ライアンエアー・オーストリア」という状態。それでもブランドを分けているのはラウダが関わった航空会社であると言う事実と、伝説のF1レーサー、ニキ・ラウダの「ブランド力」を利用する為だと思います。

 

ニキ・ラウダが去った後の「ラウダブランド」の行方

 

ラウダモーションが立ち上がり、これからと言う時の突然のラウダの死は、ニキ・ラウダの名を冠した航空会社の先行きを不透明にしました。すぐにブランドが消える事はないにしても、ラウダモーションはラウダ個人の航空ビジネスの情熱とラウダの知名度でできた会社であり、そのラウダが世を去った今、彼の名を冠した航空会社が長い期間ブランドを維持できるとは思えないからです。

そう遠くない将来、恐らくライアンエアーがブランドを一本化した方がプラスだと判断した時が、ニキ・ラウダの名を冠した航空会社が消える時ではないかと思います。F1でも航空ビジネスでも一時代を築いた「飛行機野郎」ニキ・ラウダの名が航空業界から消えるのは残念ですが、栄枯盛衰が常の航空業界では仕方のない事かも知れません。願わくば、航空業界から「ラウダ」の名前が消える日ができるだけ後ろになることを祈るばかりです。