〜Aviation sometimes Railway 〜 航空・時々鉄道

航空や鉄道を中心とした乗り物系の話題や、「迷航空会社列伝」「東海道交通戦争」などの動画の補足説明などを中心に書いていきます。

東海道交通戦争、最終回明日(5/5)アップします!

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とりあえずご報告です。

現在、長い間引っ張ってきた「東海道交通戦争」の最終回を製作中です。原稿は既に完成済みで現在編集中、あとはエンディングの映像はめ込みと一部字幕つけ、エンディング以外のBGM選定を残すのみです。明日5/5の午後までにはYouTubeにアップ、その翌日の5/6までにニコニコ動画へのアップを予定してます。

完結まで7年半もかかりましたが、私にとっては一つの区切りであり、集大成でもあります。完成後は当ブログで補足説明や振り返り、今後のサブチャンネルの方向性などをお話して行きたいと思いますので、どうぞ皆様もう少しだけお付き合い下さい。

 

なお、まだ見てない方やそもそもブログから入ってこのシリーズ自体知らないと言う方は、この機会に一度ご覧頂ければと思います。トータルで5〜6時間くらいかかりますが、多分損はさせないと思いますので(笑)とりあえずYouTubeとニコニコの第1話を貼り付けておきますので是非ご覧下さい。

 


東海道交通戦争 第一章「新幹線開業前夜」

 

【5月6日追記】

ユーチューブで5月5日、ニコニコで5月6日に最終回をアップしました!


東海道交通戦争・最終回「陸と空の未来予想図」

 

 

これからしばらくはこのシリーズの補足とまとめみたいなことを順次書いていきたいと思いますのでよろしくお願いします。まずはご報告まで。

それにしてもトータルで6時間くらいの大作になってしまいました。ここまで長くなるとは・・・

 

 

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京王観光不正乗車事件の調査報告書を読んでみた。

1月に発覚した京王観光の不正乗車問題ですが、4月24日の報道で被害額が約6000万円、JR各社からの損害賠償額が約1億8000万円にのぼる事が分かりました。同時に乗車券の販売委託契約も解除され、マルスも正式に引き上げとなりました。今後京王観光ではJR券の発券ができなくなり、JR利用のツアーや団体旅行を扱う事は事実上不可能となります。

 

これまでの経緯についてはこちらの記事もご参照ください。 

www.meihokuriku-alps.com

 

さて、JRからの処分を受けて京王観光は今回の事件のお詫びと社内調査の結果を書いたお知らせを公表しました。今回はこの調査報告を読んでみて、京王観光がなぜこんな不正をやっていたのか、長年野放しになっていたのか、今後の京王観光はどうなるかを検証してみたいと思います。

調査報告は京王観光のHPで公開されていますので、一度読まれることをおすすめします。

www.kingtour.com

 

http://www.keio-kanko.co.jp/file/kta_report20190425.pdf

今回は調査報告書の項目ごとに内容の概略を書き、検証していきます。

 

1.不正の概要と経緯

不正が行われていたのは大阪支店、大阪西支店、福岡支店の3店舗。このうち大阪西支店は2018年11月に大阪支店に統合されています。

不正の手口は京王観光に貸し出されたマルスで団体乗車券を発行する際、実際の乗車人数よりも少ない人数で発行し、足りない分は回数券と座席指定だけした券(いわゆる「指のみ券」)を発券して添乗員に持たせ、当日改札で確認されずに通過した場合は回数券を払い戻して利益として計上、というものでした。

不正に関与していたのはこれら3支店に在籍していた12名で、うち4名は不正で得た利益の一部を着服していたそうです。上記3支店以外では同様の不正は行われていなかったとの事。不正で利益を得ていただけではなく、着服までしていたとは・・・開いた口がふさがりません。

 

不正が発覚したのは2018年6月の従業員からの告発でした。これを受けた京王観光では3支店の従業員36名に事情聴取を行うなどの社内調査を開始。不正が確認された8月2日にJR西日本(恐らく当該支店のマルスの管轄がJR西日本だったのでしょう)に不正の報告と謝罪をしました。さらに他の支店の社員303名にも事情聴取を行い、全支店のJR券発券データと精算データを照らし合わせて不正金額を調査し、10月19日に第一次方向書を提出しました。JR側の検証作業の後、2019年1月28日より再調査を実施。なお週刊文春の記事で不正が明るみに出たのは再調査前の1月9日の事でした。

第二次調査では従業員の再度の聞き取りとデータ等による検証を行い、4月18日にJR西日本に第二次報告書を提出。この間2月5日にはJR券の発券停止処分となり、マルスも引き上げられました。

 

2.不正金額

データから算定した結果、不正の件数は約110件、金額は約6000万円でした。1件あたりの平均金額は約54万円ですから、人数が多く、改札で切符を確認されずに通される可能性の高い大口の団体を中心に不正を行っていたのではないかと思います。但し、これもデータが残っている2007年4月以降で算出されたものなので、それ以前の不正件数や金額は不明。後述しますが不正は少なくとも1990年代半ばから行われていたそうなので、実際の不正金額はこの倍以上ではないかと思います。

 

3.賠償額とJRからの処分

不正行為に対してJR各社に支払う賠償金は約1億8100万円。これはJRの旅客営業規則第264条の「乗車券の無札及び不正使用の旅客に対する旅客運賃・増運賃の収受」に基づくものと思われ、「不正分の運賃・特急券分の3倍の料金をペナルティとして支払わなければならない(要約)」というJR各社の規則に基づいた請求額です。京王観光は賠償金を5月31日までに支払うとしています。

また、上記の通りJR各社との乗車券類の委託販売契約は正式に解除。委託販売契約が打ち切られるのは極めて異例の事で、京王観光の行った不正がいかに重大で悪質な事であるかがこの事からも分かります。

 

4.上記以外の問題行為

不正が行われていた3支店では不正乗車以外にも「団体乗車券における大人と小人の人数の取り扱い、回数券の払戻手数料、学生団体料金の適用、回数券の取り扱いで問題行為が判明しております(京王観光の調査報告書から引用)」とされており、これら3支店ではこうした不正や水増しは日常茶飯事であった事が伺えます。しかしこれらの問題行為に関しても他の支店では不正は確認されなかったとされています。なぜ3支店だけこのような不正や問題行為が横行していたのでしょうか?

 

5.不正行為の原因

ある意味、この項目が今回の調査報告書の最大の肝かもしれません。要約すると大阪支店誕生の経緯や歴史、京王観光内での大阪支店の特異な立ち位置が不正の温床になっていたようで、この事例は今後企業のコンプライアンス対策の面でケーススタディーのひとつになりそうです。

 

今回の不正行為に関わっていた社員の中で、最も古くから関与していたとされる社員の証言では、少なくとも1990年代前半から団体旅行でこの種の不正が行われていたそうです。その時不正を行っていた社員は既に退職しているそうですが、その社員がたまたまやり始めたというものではなさそうですから、恐らく不正行為自体はその前から行われていたのではないかと思います。

大阪地区の支店は京王ブランドの影響力が強い首都圏の支店と違って知名度がなく、「東京に数字で負けたくない」という風土が強く、特に利益管理が他の支店よりも厳しかったようです。営業担当者は支店長から目標達成を強く求められ、前述の社員も2001年に大阪支店長に昇進したころから予算達成の為に不正に手を染めたと証言するなど、大阪地区にはノルマ達成の強いプレッシャーがあった事が不正行為に手を染める同期になったものと思われます。不正に手を染めなければならない程追い詰められていたという事は相当無理なノルマだったのではないのでしょうか。

また、着服に関しては予算見込み利益を超えた際に「少しくらいいいだろう」という安易な考えから手を出してしまったらしく、2008年から2018年までの間に4人合計で230万円を着服したようです。正直、これに関しては呆れるしかなく、完全に不正行為をしているという感覚がマヒしてしまっています。

 

また、大阪地区の支店誕生の経緯も不正の温床のひとつとなっていたようです。京王観光は1953年に設立されましたが、基本的には京王線のある首都圏のみでの営業でした。京王観光の営業所一覧を見てもツアー商品や乗車券類を販売するカウンターのある店舗は京王沿線内のみですし、カウンターのない団体旅行専門の支店も首都圏以外では札幌、仙台、大阪、福岡の4店舗のみ。全体的に首都圏での営業が主で、他の地域は傍流と言う感じです。

その後、1969年に関西地盤の桜菊観光と合併し、関西にあった桜菊観光の支店は京王観光の支店に衣替えします。つまり、大阪地区の支店は京王観光自身が開設したものではなく、吸収した桜菊観光の流れをくむものでした(4.26訂正:京王観光のHPを再確認したら合併後の存続会社は桜菊観光で、形式的には桜菊観光が京王観光を吸収後、社名を京王観光に変更しています。事実上の力関係はともかく、誤った情報でした。申し訳ありませんでした)

流石に50年前の事なので合併に至った経緯や状況は分かりませんが、なぜか合併後も旧桜菊観光の支店は半ば独立して運営され、京王観光内でも他支店との接点が少ない特異な存在となって行きます。

 

※4.26追記:桜菊観光との合併の際、京王観光は東京都知事登録なのに対し桜菊観光は運輸大臣登録でした。旅行業登録は国内外の企画・手配旅行全てができる第1種旅行業のみ運輸大臣(現国土交通大臣)登録、国内のみ企画旅行が取り扱える第2種旅行業と手配旅行のみ取り扱える第3種旅行業は都道府県知事登録なので、第1種旅行業登録を活かすために桜菊観光を存続会社にしたのではないかと思います。

また、桜菊観光は国鉄の団体手数料交付業者指定を受けており、第1種旅行業登録と合わせ京王観光が持っていないものをいくつも持っていました。そう考えると旧桜菊観光の流れをくむ大阪地区の支店が半独立化していたのも納得できます。

推測ですが合併の際も許認可面で有利な桜菊観光の影響力は強く、合併後も旧桜菊観光の支店は半独立化を黙認されていたのではないかと思います。人事面でも旧桜菊観光の支店と社員は旧京王観光とは別体系となり、大した異動や人事交流もないまま今に至ったのではないでしょうか。

 

大阪地区の社員は首都圏や他地域への異動はほとんどなく、逆に首都圏や他地域から社員が異動する事もほとんどありませんでした。昇進についても大阪地区で採用された社員が内部昇格するなど、京王観光の一支店にも関わらず独自の組織文化が維持・継承されていきました。ちなみに、福岡支店の場合は2015年4月に開設された際に大阪支店から1名異動になり、大阪支店での担当案件を不正行為と一緒に福岡支店に持って行ったことが原因でした。

 

異動による人的交流もなく、他地域の社員との接点も希薄だったことが長年不正を行っていても発覚しなかった理由であり、逆に不正が大阪と福岡だけで止まっていた理由でもありました。不正行為は大阪地区の支店内で引き継がれていき、同じメンバーが同じ案件を継続的に行い、同じ不正行為を続けて行きました。支店内でも不正の認識はあったものの、申告すれば同僚が処分を受けることを恐れたり、上司の関与が疑われるのを恐れてそのまま黙っていたために結果的に大阪支店内で情報が止まっていた事も発覚を遅らせる原因となっていました。

本社サイドは「大阪地区の支店は支障なく運営されているとの予断があった」「不正の手口は特殊で、通常の内部監査では不正は発見できなかった」としていますが、恐らく京王観光内でも特異な存在である大阪地区の支店は本社サイドでも触れてはならない存在になっており、下手に介入をしない風潮が生まれていたのではないかと思います。不正を起こしたのは大阪地区の支店であり、JRや顧客に迷惑をかけ、会社を窮地に陥れた責任は重いのですが、大阪地区の支店を野放しにしていた本社にも責任はあると思います。

 

6.お客様への影響

委託販売契約の解除によって今後京王観光の支店ではJR券の発券業務ができなくなり、京王観光の窓口でJR券を購入することは不可能になりました。JR利用以外のツアーや他社パッケージツアーは引き続き販売されますが、京王線沿線はJRの駅と離れている駅が多いので、この地域でのJR券購入は多少不便になりそうです。

また、報告書では触れられていませんが、京王観光の強みである修学旅行についてもJR利用のコースは今後手配できなくなるので、業者選定の候補から京王観光を外す学校が続出しそうです。まあ、そうでなくとも刑事事件級の問題を起こした京王観光は指名停止などで公立学校の修学旅行から締め出されそうですが・・・

 

7.処分

今回の処分を受け、京王観光では社長を始め取締役8人中6人を減俸処分とし、監査役も自主的に報酬の一部を返上しました。親会社の京王電鉄でも社長を始めとした一部の役員が自主的に報酬の一部を返上します。また、不正に関わった社員12名に対しては解雇を含む厳正な処分を実施する、としています。「着服の事実も勘案し」とされていますから、少なくとも着服も行った4名に関しては解雇となる可能性が高いと思われます。また、責任者であり、自身も不正に関わった当時の支店長も解雇になるかも知れません。

 

8.再発防止策

不正の温床となった一部支店の半独立化などの内部統制の問題に対する対策に重点が置かれている印象です。まず既に実施されているのは各支店・営業所の統括管理部門の新設と大阪支店の人事刷新。大阪西支店の統合も再発防止策の一環だったようです。

また、今後は不正を未然に防ぐために営業管理システムを一新し、利益偏重主義の反省から人事評価制度の再設計、営業担当のジョブローテーションの義務化など、業務の属人化を防ぐ仕組みが作られるほか、コンプライアンス教育の徹底や内部統制システムの再点検が行われます。不正行為を行っていた大阪支店は閉鎖され、大阪には既存顧客への対応要員を本社直轄の駐在所が置かれる以外は社員は全て首都圏などの支店や本社に異動することになります。

 

まとめ

再発防止策自体は具体的なものであり、不正の再発や社内の管理体制にメスを入れるものになると思います。しかし、今回の不正で京王観光は多額の賠償金を払うほか、マルスや大阪支店の顧客、修学旅行の案件も失う事になります。そして何よりJRを始めとした取引先や顧客からの信用を失う事になり、今後の営業活動はかなり厳しいものになる事が予想されます。また、JR6社の中で一番被害が大きかったJR東海は「刑事告訴すべきかどうかも含めて検討中」としており、今後刑事事件化や関係者の立件の可能性もあります。場合によっては京王観光と言う企業そのものの存続も厳しくなるかもしれません。

正直言って不正の問題発覚や再発防止策は「遅きに失した」と言わざるを得ません。不正を行ったのは一部の支店でしたが、その支店に適切な管理や指導をせず、野放しにしていた京王観光自体の責任も重大です。もっと早く不正が分かって対処していれば賠償金の額も少なく済んだと思いますし、委託販売契約解除までは行かなかったかもしれません。京王観光の立て直しは茨の道ですが、今回の事件を真摯に受け止めて信頼回復に努めて欲しいと思います。

 

コンプライアンスの遵守に世間の目が厳しくなっている昨今、不正を放置したり、隠ぺい工作を行う事自体が大きなリスクになっています。しかし日本では組織防衛や目先の業績の為に不正や隠ぺい行為に走るケースが後を絶たず、結局発覚して致命的なダメージを受けてしまいます。ここ数年、日本企業で相次いだデータの改ざんや粉飾決算、過重労働などの不祥事も問題の根っこは同じだと思いますし、「不正や隠ぺいを行う方がリスクが大きい」と言う事を企業全体、特に経営層が改めて認識すべきではないのでしょうか。

 

 

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ジェットスタージャパン・成田ー庄内線就航決定。今後のLCC就航のトレンドは「地方路線の掘り起こし」?

 

4月17日、ジェットスタージャパンは8月1日からの成田ー庄内線の就航を発表しました。1日1往復で成田発は午後1時、折り返しの庄内発は午後2時50分発。ジェットスタージャパンにとっては初めての東北路線となるほか、山形県にとっても初のLCC就航となります。

庄内線就航の決め手となったのは「自治体や地元企業が熱心に誘致した事」と「庄内地方は40万人の人口があり、航空需要掘り起こしの余地がある事」の2つ。2年前から県知事らが就航を働きかけ、チェックインカウンター整備などで支援する姿勢を示したことで継続的な地元の支援を受けられるとジェットスタージャパンが判断した事、また、庄内地方は観光需要の他、ハイテク企業が集まり一定のビジネス需要も見込めることが就航決断を後押ししたようです。

現在、庄内空港からの路線はANAの羽田線4往復のみで独占路線、またJRも所要時間の面で決して優位には立っていない事、特に冬場は積雪や吹雪で運休や遅延することがしばしばあることから、庄内-羽田線の航空運賃は強気な設定になっています。ジェットスターの成田線就航は新たな選択肢ができる以上に、航空運賃の値下げという効果を庄内地方にもたらすことになります。ANAにも直接影響は与えないものの、ジェットスターの低価格は意識せざるを得ないでしょうから、運賃面の見直しも考えられます。

 


www.aviationwire.jp

 

www.fnn.jp

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さて、2012年5月のピーチ就航以降、順調に路線網を広げる和製LCCですが、ここ1~2年は高需要とは言えない地方路線の開拓が目立ってきています。最近のLCC各社の就航路線を見ても、ピーチが関西~新潟・釧路線、ジェットスタージャパンが成田~下地島や成田・関西~高知線、バニラが成田・関西~函館線(ただしこれは軌道に乗らず撤退しましたが)と、以前の就航路線よりも需要が小さい地域への就航が目立ちます。

当初は札幌や福岡、那覇と言った高需要が見込める路線や、鹿児島や宮崎と言った地方路線でも航空が優位に立ち、需要も大きい路線への就航が多かったのですが、近年はそれらの路線の開拓も一巡してきました。LCCの就航はそれまで飛行機に乗らなかった人を呼び寄せ、運賃が安い分、飛行機に乗る回数を増やしたりコンサートやスポーツ観戦にLCCを使うなど新たな需要を開拓してきましたが、一通り需要の大きい路線にLCCが就航した今となっては、規模拡大の為には「既に別のLCCが就航した路線に参入する」「大手や他のLCCが目を付けていないニッチな市場を開拓する」かの二つになります。

今のところ、ジェットスタージャパンは黒字化したとはいえまだまだ累積損失は残っており、ピーチもバニラとの統合作業に人的リソースを割く必要があり競合どころではないため、路線開拓に関しては後者を選択しているようです。両社とも今は正面対決を避けている節があり、競合できる体制が整うまでは空白地帯への就航が中心になって行くものと思います。

 

それでは、今後はどこの路線への就航が考えられるでしょうか。現在のLCC空白地帯は地域単位で見れば北東北(青森・秋田・花巻など)、北陸(小松・富山・能登)、中国(広島以外の全域)と、まだ開拓の余地は残っています。また北海道に関しても旭川や帯広、女満別は羽田線のボリュームや以前関西からの路線が就航していた事を考えると有力な就航先です。それ以外でも観光面で潜在的需要が見込める地域としては南紀白浜や対馬、久米島などが挙げられますし、徳島もLCC未就航地域。関西視点で見れば福島や八丈島も候補に挙がってきますし、中部発の地方路線はまだまだ開拓の余地があります(中部に関してはエアアジア・ジャパンとジェットスタージャパンの取り合いでしょうが)

今後はジェットスタージャパンと、バニラ統合で新たに成田が拠点の一つになるピーチとの間で空白地帯の取り合いが始まるのではないでしょうか。恐らくここ数年で地方空港へのLCC就航はかなり進むことになるのではないかと思います。「うちの地方の空港にはLCCが来ない!」と嘆いているそこのあなた、案外明日当たりLCCの就航発表があるかも知れませんよ・・・?

 

 

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アシアナ航空売却で韓国やアジアの航空会社再編は起こる?

4月15日、韓国の大手航空会社、アシアナ航空を保有する大手財閥、錦湖(クムホ)アシアナグループは、金融支援と引き換えに保有するアシアナ航空株を売却すると発表しました。

アシアナ航空は1988年に韓国の航空会社参入規制が緩和された事に伴い、クムホグループによって設立され、以来クムホグループの中核企業・韓国第2位の大手航空会社として発展してきましたが、近年はアシアナ自体の業績悪化に加え、クムホグループ自体も拡大戦略とM&Aの失敗で7兆ウォン(約7000億円)の負債を抱え、資金繰りに窮した結果今回の売却となりました。今後は売却先を探すことになりますが、同じ韓国国内の大手財閥、SKグループやハンファグループが有力視されています。

 

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trafficnews.jp


www.chosunonline.com

 

さて、今回のアシアナ航空の売却ですが、多額の負債を抱えるアシアナやクムホグループの再建にはこれしかなかったのだろうと思います。近年は機内食が用意できない問題で自殺者を出したり、クムホグループ会長自身も傘下企業の女子社員に喜び組のようなことをさせていた事が発覚するなど不祥事が続いていました。市場もクムホグループを離れる事で経営改善が期待できるとアシアナ株がストップ高になったくらいですから、クムホグループ単体での立て直しは企業統治面でも難しかったのではなかったのでしょうか。

 

その一方で今回の売却が韓国やアジアの航空再編に繋がる可能性は低そうです。大抵の国で設けられている航空会社の外資規制は韓国にもあり、アシアナ航空を外資系ファンドや国外の航空会社に売却するのは不可能。国内の競合他者への売却も大韓航空は独占禁止法に引っかかる可能性が高い上に大韓の親会社の韓進グループも会長の急死で今後のグループ運営が不透明になっており、アシアナ買収どころではないので現実的ではありません。イースター、ティーウェイ、チェジュといった中堅LCCも規模的にアシアナ丸ごと買収は不可能ですし、今回のアシアナ売却は傘下のエアソウル、エアプサンの個別売却は想定していませんから、今のまま推移すれば業界的にはアシアナの親会社が移動して終わり、となりそうです。

 

むしろ今後の懸念事項はアシアナの売却先探しが長期化する事でしょう。売却先として名前が挙がってるSKもハンファも「アシアナを買えるだけの財力とメリットがある」と言うだけで、当事者から手が挙がった訳ではありません。アシアナ売却のネックは売上高に匹敵する7兆ウォンの負債であり、クムホよりも大きいSKやハンファと言えども簡単に手は上げにくいと思います。

ひょっとしたら、アシアナに出資して乗り継ぎを強化したい海外の航空会社と組んでリスクを分散させることも考えられます。候補としては同じスターアライアンスに所属するユナイテッド、ルフトハンザ、ANA辺りが考えられますが、韓国の加盟会社がいないワンワールド加盟会社が鞍替え狙いで出資を持ちかける可能性もあります。いずれにしろ売却先が決まるまでは数ヶ月かかると言われていますので、この問題が決着するまでは時間がかかりそうです。

 

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航空会社や鉄道会社で活躍した昭和の運輸官僚

随分と間が空いてしまいましたが、迷航空会社列伝「東急の空への夢」第4話をアップしました。今回からYouTube版は映像の比率が多いものを、ニコニコ版は静止画の比率を増やして代理の人のセリフを増やしたものをアップしています。YouTubeのスパム対策の一環ではありますが、せっかくの機会なので単に画像を差し替えるだけでなく、多少は手直しをしていますので、両者を見比べて違いを楽しんで頂ければと思います。

 


東急の空への夢 第4話「至誠監督官庁と競合相手に通ず」

 

さて、このシリーズの動画内ではしばしば運輸省の事務次官出身者が登場します。今回の動画でも登場した全日空社長の若狭得治氏や、日航社長の朝田静夫氏、今回の動画内ではまだ現役の運輸省職員ですが住田正二氏や中村大造氏など、この時代は事務次官経験者が退官後、民間の鉄道会社や航空会社の社長として転身するケースが少なくありませんでした。官僚のトップである事務次官まで登り詰めただけあって、社長転身後も単なるお飾りではなく、転身後の会社を大きく発展させたり、赤字の鉄道会社を立て直したりと民間出身者顔負けの活躍をされています。今回はそんな航空会社や鉄道会社で活躍した昭和の運輸事務次官経験者をご紹介しましょう。

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朝田静夫(次官在任時期1961.7~1963.4 日本航空社長など)

東大法学部出身で、当初は逓信省(戦後郵政省を経て現在の総務省)に入りましたが、戦後の省庁再編で運輸省に移りました。運輸省では官房長や海運局長といった出世コースを順調に歩み(戦後すぐのころは海運局の影響は大きく、エリートコースとされていました)、1961年に運輸事務次官に登り詰めます。事務次官時代には海運業界再編などの実績を上げたのち、1963年4月に退官しました。

その後は日本航空に天下り、専務、副社長を経て1971年、日本の民間航空再建に尽力した松尾静麿の後を受けて社長に就任します。朝田時代の日航は日本の経済発展に合わせて世界を代表するフラッグキャリアへと駆け上がった時期であり、彼自身もニューヨーク乗り入れや日ソ、日中路線の開設交渉で手腕を発揮しました。後述する全日空社長の若狭得治とは3年差の先輩後輩の間柄でしたが、両者の仲は犬猿の仲といわれるほど悪く、若狭による全日空の躍進は朝田への対抗心もあったのかもしれません。

その一方で1972年のニューデリーやシェメレーチェヴォの墜落事故や、ドバイやダッカなどのハイジャック事件など、朝田が社長の時代は日航の安全体制が問われた時期でもありました。1981年に社長を退任し、相談役となった後は日本航空協会会長や国際交通博覧会協会会長など多数の公職を歴任しました。若狭ほど派手な活躍はありませんが、日航を世界の主要キャリアと張り合えるほどの地位に押し上げたのは彼の大きな功績と言っていいでしょう。1996年11月、85歳で死去。

 

若狭得治(次官在任時期1965.6~1967.3 全日空社長→会長→名誉会長)

この方は動画内でも触れていますし、全日空の歴史を語るうえで絶対に外せない人ですから、全日空時代の功績については言うまでもないかと思います。若狭は富山県出身で1938年に逓信省に入省、朝田と同じく省庁再編で運輸省に移っています。戦後すぐの時期は結核にかかり3年間の療養生活を余儀なくされますが、1953年10月に大臣官房考査室長として復帰。その後は神戸海運局長、東大部長、海運局次長→局長と海運畑を歩き、海運局長時代には海運会社の統合にその手腕を振るい、海運業界の体質強化を図りました。ちなみに海運局次長時代に局長だったのが朝田であり、どういうわけかこの二人には因縁めいたものがあるようです。

1965年6月に運輸事務次官に就任し、国鉄料金の値上げ問題や船員ストの調停、日米航空協定の改定や日ソ航空協定の締結、新東京国際空港の候補地選定など様々な運輸関係の問題に携わり、1967年3月に退任しました。

このころの全日空社長の岡崎嘉平太は、自分の後継として若狭に目をつけており、猛烈にアプローチしたそうですが、事務次官経験者の民間企業への天下りは退任後2年たってからという不文律があり、すぐの就任は不可能でした。このため若狭が全日空に顧問として入社したのは1969年であり、副社長を経てM資金詐欺に引っかかって辞任した大庭哲夫の後任として1970年に社長に就任します。

全日空社長となった後は国際チャーター便進出や大型ジェット機の導入、ホテル事業の展開などの経営の多角化を図り、二流会社扱いだった全日空を「国内線のガリバー」として大きく発展させ「全日空中興の祖」と呼ばれるようになります。1976年のロッキード事件で外国為替管理法違反、議院証言法違反の容疑で逮捕されますが、全日空社員は若狭を追い出すどころか最大の功労者を守ろうと一致結束します。社長の座こそ退かなければなりませんでしたが、その後も会長として引き続き全日空の発展に尽力し、念願の国際線開設を見届けます。

1991年に名誉会長に退いた後も全日空に隠然たる影響力を持ち、「全日空のドン」と呼ばれましたが、1997年の次期社長をめぐるお家騒動で相談役に退き、以後は表舞台から身を引きました。2005年12月、肺炎のため91歳で死去。

 

佐藤光夫(次官在任時期1967.3~1968.6 京成電鉄社長)

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 前述の2人が会社の発展に尽力したとすれば、佐藤氏は経営不振の会社の再建に尽力した運輸次官経験者です。佐藤は長野県諏訪市出身で、東京商科大学(現一橋大学)を卒業後、実業に関係のありそうな省庁を希望して鉄道省に入省。この方も省庁再編で運輸省に移ってますが、前述の2人とは元の所属が違います。大阪陸運局長時代は白タク禁止を実現しましたが、自宅前でデモが行われるほど猛反発を喰らうも、粘り強い交渉を続けて実現しました。1965年には航空局長に就任し、若狭の下で日米航空協定改定や日ソ航空協定の日本側代表を務めます。

その後海上保安庁長官を経て1967年3月、若狭の後任の運輸事務次官に就任します。1968年の退官後は運輸経済研究センター理事長や日本民営鉄道協会理事長、国際観光振興会会長などを歴任しますが、民間企業とは無縁の世界にいました。

 

1979年6月、日本興業銀行から京成電鉄副社長に転じていた村田倉夫に懇願され、経営不振に陥っていた京成電鉄の社長に就任します。当時の京成電鉄は前任の川崎千春社長のもと観光事業や小売業、不動産事業など多角化路線を進めていましたが、オイルショック後の不況や行き過ぎた不動産投資、開港後の空港アクセス利用を見込んでいた成田空港の開港が遅れた上に空港直結ができなかったことなどで1978年には株式配当が無配に転落するなど深刻な経営危機に陥っていました。さらにこの頃の京成は労使対立も激化しており、京成線の廃線も検討される程深刻な状態でした。要は佐藤が招聘されたのは運輸省時代の経験と人脈を当てにした京成電鉄の再建だったのです。

社長に就任した佐藤は副社長の村田との二人三脚でなりふり構わぬ再建を進めます。1980年に策定された経営再建計画では25%もの人員削減や系列百貨店の店舗整理、谷津遊園の閉演と跡地売却や津田沼の車両基地の宗吾参道への移転と跡地の売却などの資産整理など厳しいもので、特に人員削減については一時日本民営鉄道協会から脱退して春闘で独自に組合と交渉するなどメンツを捨てたなりふり構わぬものでした。こうした努力が実って1984年には債務超過から脱却し、主力の鉄道、自動車部門の黒字化も達成します。さらには傘下のオリエンタルランドがディズニーランドの招致に成功し、1983年に開業した東京ディズニーランドが大成功を納めた事も業績改善に大きく貢献しました。佐藤は1986年に村田に社長の座を譲り、会長に退きます。1990年には相談役に退いて京成の経営から離れ、1997年7月に83歳で死去。

JALで行く東京ディズニーリゾート(R)

 

中村大造(次官在任時期1976.6~1978.6 新東京国際空港公団総裁、全日空社長)

三重県桑名市出身で、東京帝大にまで進みましたが、1944年に学徒動員で海軍に入隊、戦艦「長門」にも乗艦するなど次官経験者には珍しく兵役を経験しています。

1946年に運輸省に入省した後は人事課長、観光部長、自動車局長、航空局長を歴任します。ちょうど全日空とTDAが長崎線開設で揉めていたころの航空局長ですね。1976年6月に運輸事務次官となりますが、ちょうどこの頃はロッキード事件で政財界が揺れていた頃。必然的にロッキード事件解明に大きく関わる事になります。また、中村が次官を務めていた頃は成田空港開港を巡って闘争が激化していた頃でしたが、講義に訪れた反対派を歴代運輸事務次官で唯一直接応対し、コーヒーも出してもてなすなど、人柄の良さが分かるエピソードもあります。1978年6月に退官した後は国鉄常務理事を務めたのち新東京国際空港公団副総裁→総裁を務めました。

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その後1983年に次期社長含みで入社したものの1年で退社した住田正二に代わり、全日空第7代社長に就任します。社長在任中に「45・47体制」が撤廃され、1986年に悲願の国際線進出を果たします。3月3日に成田~グアム線の就航式典であいさつをしますが、その場所はくしくもかつて自身が総裁を務めた成田空港であり、創業以来の夢を自身の手で、ゆかりある場所で実現できたことに感無量だったのではないでしょうか。

しかし、残念ながら中村氏はその後の全日空の発展を見届けることはできませんでした。翌年の5月6日に肺の石灰化の為現職のまま死去。まだ67歳の若さでした。

 

住田正二(次官在任時期1978.6~1979.7 JR東日本社長)

この方も動画内で重要な地位を占めていますが、他の方に比べると必ずしも順風満帆なキャリアではなかったようです。

住田は1922年に神戸市で生まれましたが、父が呉造船所社長だった関係で本籍は広島県呉市にありました。東京帝大に進学したものの、2年次に学徒動員で招集、大邱に二等兵として配属されたのち幹部候補生試験を受けて合格、浦和で勤務の後終戦を迎えます。

戦後は大学に復学し、卒業後1947年に運輸省に入省。海運総局に配属され、海運、造船業界の再建整備を担当します。この時に貸借対照表や損益計算書について勉強しており、1955年に防衛庁に2年間出向しています。その後航空局監理部長や鉄道局国鉄部長、官房長や鉄道監督局長などを歴任して1978年6月に運輸事務次官に就任します。

 

ここまでは順風満帆で次官も2年務めるのではと言われましたが、運輸大臣の森山欽司と対立して1年で退官してしまいました。退官後は運輸経済研究センター理事長に就任し、その後次期社長含みで全日空に常勤顧問として迎えられます。しかし、ここでも会長の若狭と対立してしまい1年で退社。TDAの時もそうでしたが、どうもこの人は言い争いで敵を作りやすいタイプだったのかも知れません。

その一方で1981年に第二臨調専門委員となり、国鉄、電電公社、専売公社の三公社民営化や特殊法人見直しに尽力します。1983年からは国鉄再建監理委員会の委員の一人となり、国鉄分割民営化を答申する立場となりました。運輸省時代から反骨気質のある人でしたから、ある意味行政改革は住田氏にとって適任だったのかも知れません。

 

そして1987年、運輸大臣だった橋本龍太郎の要請を受けてJR東日本の初代社長に就任します。JR時代の住田氏は組織のスリム化と現場への権限移譲、技術面の強化、合理化と効率化の推進などJR東日本の経営基盤確立に辣腕を振るいました。1993年に会長に退き、1996年に最高顧問、2000年に相談役となり、2017年12月に老衰の為95歳で死去。波乱万丈な人生でしたが、一番長寿だったのもこの人でした。

 

杉浦喬也(次官在任時期1982.6~1984.7 国鉄総裁、全日空会長など)

この方も退官後のキャリアは紆余曲折を辿りました。1925年に東京都大田区で生まれましたが、4歳の時に父親と死別し、母親が美容師となって女手一つで育てられたようです。東京大学卒業後、1951年に運輸省に入省しますが、この時の動機に後に日本航空社長となる山地進がいます。1969年に国鉄部長となりますが、この頃に後に国鉄分割民営化で大きな関りを持つ運輸族議員、三塚博や加藤六月と親しくなりました。

その後1982年6月から運輸事務次官を2年務めたのちに退官し、港湾近代化促進協議会会長に就任しますが、1985年6月、国鉄分割民営化に消極的だった第9代国鉄総裁の仁杉巌が中曽根総理の強い意向で更迭され、その後任として第10代国鉄総裁に就任。運輸大臣となった三塚や、松田昌士、井手正敬、葛西敬之の「国鉄改革三人組」らとともに国鉄分割民営化にあたる事になります。国鉄の終焉を見届けた後はJR東日本の初代社長に就任する話もありましたが、結局はJR東日本の社長は住田となり、杉浦は国鉄清算事業団総裁となりました。

 

その後1990年には全日空に転じ、翌年には若狭の後任の会長となります。全日空時代の杉浦は国際線拡大を進めますが、軌道に乗らず赤字続きとなってしまいます。最後は若狭同様、全日空の後継社長を巡るお家騒動で会長を退き、相談役になります。2008年1月、82歳で死去。

 

 

まとめ 

以上、昭和時代の運輸事務次官経験者の民間での活躍をご紹介しました。こうして見ると民間転身後の活躍は決して腰掛けではなく、運輸省時代の経験や人脈を生かして転身先でも活躍するケースが多い事に気づきます。また、過去の次官経験者と退官後も関わりのあるケースも多く、特に全日空に転じた次官経験者が多いのは、大物次官だった若狭氏の影響が大きかったからでしょう。

平成の時代に入ると官僚の民間への天下りがやり玉に上がったこともあり、次官経験者の民間企業への転身は鳴りを潜めました。省庁再編で国交省になった後は次官経験者は特に目立つからか、特殊法人や特殊会社に転じるケースが多いようです。昭和の時代は優秀な経営者を多く輩出した運輸省。現在では国交省出身者が大手企業で辣腕を振るう、と言う事はもうなさそうですが、日本の交通産業発展の礎を築いたのも官僚出身者だったのもまた事実。戦後の混乱期で辣腕を振るった剛の者だったからこそ、民間でもその能力を遺憾なく発揮できたわけですが、果たして、今の中央省庁の官僚にそんな気骨のある人はいるもんですかねえ・・・

 

 

 

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貸切バス運賃の旅行会社への手数料規制は必要。でもそれだけでは根本解決にはならない。

国は貸切バスの運賃について、バス会社から旅行会社に支払う手数料によって実質的な「下限運賃割れ」を防ぐための規制や対策の強化に乗り出します。5月以降、バス会社が旅行会社に払う手数料を文書に明記することを義務付けます(恐らく運送引受書のことかと思います)。また、事業年度ごとにバス会社が旅行会社に支払った手数料額の国への報告も今年度から義務付けられます。

また、過大な手数料などによる実質的な下限運賃割れについても調査・監査体制が強化され、第三者委員会の窓口に寄せられた情報などを基に国が積極的に調査し、安全運行に影響するような過大な手数料に対しては第三者委員会の助言を受けつつ、悪質なものに関してはバス会社や旅行会社に行政処分を科すことになります。


mainichi.jp

 

現在の貸切バスの運賃は2014年4月1日に制定されたものですが、各地域の運輸局が定めた基準運賃をもとに計算し、上限運賃と下限運賃を超えないようにしなければならない、と言うものです。その計算方法は、

時間制運賃(出庫から入庫までの時間+2時間×1時間当たりの単価)+キロ制運賃(入出庫の回送を含めた走行キロ×キロ当たりの単価)

が基本となり、交代運転手が必要な場合や運行時間が深夜時間帯(22時~5時)にまたがる場合、リフトバスなどの特殊車両の場合は更に割り増しされます。ちなみに、基準となる公示運賃は運輸局によって微妙に異なります。

 

関東運輸局の貸切バス運賃制度

http://www.mlit.go.jp/common/001201037.pdf#search=%27%E8%B2%B8%E5%88%87%E3%83%90%E3%82%B9+%E9%81%8B%E8%B3%83%27

 

北陸信越運輸局の貸切バス運賃制度

http://wwwtb.mlit.go.jp/hokushin/hrt54/bus_taxi/pdf/kashikiri_seido.pdf

 

新しい運賃制度が導入されたきっかけは2012年4月29日の関越道ツアーバス事故であり、規制緩和で貸切バス会社が急増した事で過当競争になり、バス運賃が下がり過ぎて人件費や安全の為のコストも賄えなくなったことが問題視された為でした。それまでも公示運賃はありましたが守られることはなく、実際の運賃は安く仕入れて激安ツアーを造成したい旅行会社の思惑や、後発で知名度が低い上に過当競争で優良顧客を持たず、安くてもいいから安定した仕事が欲しい小規模なバス会社の窮状から採算ぎりぎりの運賃で過酷な運用が続けられており、有名無実化していました。

その後、2016年1月の軽井沢スキーバス事故で規制はさらに強化され、国交省もバス会社への監督や運行中のバスへの立ち入り監査、旅行会社への指導や悪質な下限運賃割れへの行政処分なども行われるなど、以前に比べると下限運賃を大幅に下回るようなケースはかなり少なくなりました。

www.nikkei.com

 

しかし、今度はバス会社から旅行会社に支払われる「手数料」と言う形で事実上の値引きを迫るケースが出て来ました。バス会社に限らず、旅館やレストラン、一部の観光施設や土産物屋など、旅行会社が旅行者を集客して観光施設に送り込んだ場合は代金の一部が手数料として支払われており、これが旅行会社の収入源になります。貸切バスの場合大抵は10%、多くても15%が相場ですが、下記の総務省行政評価局の勧告書にはその相場を大きく上回る手数料の事例が記載されており、30%や40%、ひどいものだと50%という法外な手数料を要求されたケースもあったようです。これら手数料に関してはこれまでは規制の対象ではなかったため、このような「抜け穴」を使って事実上下限割れの運賃を続けるケースが少なからずありました。今回の規制強化はこの「抜け穴」を防ぐためのものであり、一定の歯止めはかけられるのではないかと思います。

 

貸切バスの安全確保対策に関する評価・監視(総務省HPより)

http://www.soumu.go.jp/main_content/000499515.pdf

http://www.soumu.go.jp/main_content/000499517.pdf

 

 

 

旅行業界に身を置いている私としては、手数料自体は旅行会社経営の根幹となるものですし、お客様サイドから取扱手数料を請求するのが困難な現状を考えると、完全に禁止されると事業が立ち行かなくなるのでそれ自体は残して欲しい、と言うのが正直なところです。しかし、いくら何でも30%や40%の手数料は法外ですし、何のために規制を強化したのか分からなくなってしまいます。先の総務省の勧告書にも9割以上は15%以下の手数料と書かれていましたので、こんな法外な手数料を請求する業者はごく一部だと思います。

私が勤めている中小の旅行会社はそんな手数料率を押し通す力はありませんし、悪評が広まってその地域で仕事ができなくなりますから、法外な手数料を取っているのはよほどの大手か、インバウンド業者など大量の旅行者を送り込める会社か、そうでなければ後の信頼関係を築くつもりのない焼畑農業的な会社がやっているのではないでしょうか。そういう一部の業者を締め出し、旅行業界を健全化させるためにも規制の強化は必要だと思います。

 

しかし、手数料規制だけではバス業界が抱える問題の抜本的な解決策にはなりません。問題の根本は「規制緩和で必要以上にバス会社の数が増え、過当競争になっている事」「消費者や旅行会社が低価格に慣れ過ぎ、値下げ圧力が強い事」「運転手への負担は増える一方なのに上記の過当競争や値下げ圧力で賃金上昇が抑制され、新たななり手が現れない事」であり、この大元の問題を解決しない限り、一部の旅行会社はまた別の抜け穴を使って下限割れの運賃を出そうとするでしょう。例えば「年間◯十台以上バスを使ったらインセンティブ〇〇万円」とか、運送引受書に載せない形でキックバックをする方法はいくらでも考えられるからです。

根本的な問題を解決する為には、バス業界や旅行業界の構造そのものを変える必要があります。私なりの考えでは「必要以上に緩い参入規制の再強化」「業界再編などによる事業者の整理統合」「抜け駆けして値下げする業者や優越的地位を利用して圧力をかける業者への厳罰化」が必要なのではないかと思います。長くなってきたので詳細についてはまた改めて書きたいと思います。

 

 

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新一万円札の顔・渋沢栄一と航空との意外な関わり

4月9日、財務省は現在の千円、五千円、一万円の紙幣を2024年度上半期に一新すると発表しました。新紙幣に使用される肖像画は千円札は日本の近代医学の父と言われる北里柴三郎、五千円札は津田塾大学の創始者で女子教育の第一人者の津田梅子、そして一万円札は第一国立銀行をはじめとして生涯で500社の企業設立に関り、日本の資本主義の父と言われた渋沢栄一。新紙幣がお目見えするのはまだ5年も先の話ですが、個人的には日本経済発展の基礎を築いた渋沢栄一氏を尊敬していたので、今回の1万円札の肖像採用は単純に嬉しいです。これを機会に渋沢栄一に注目が集まり、ゆくゆくは大河ドラマにならないかな・・・と妄想したり(笑)


www.nikkei.com

 

さて、その渋沢栄一氏が設立に関わった企業の中には交通関係の企業も多数含まれています。例えば海運業では東海汽船の前身となった東京湾汽船の株主だったり、日本郵船の取締役だったりしますし、鉄道関係では北海道炭礦鉄道や日光鉄道、北越鉄道など後に国有化されて国鉄→JR各社に引き継がれた路線の発起人になったり、現在の秩父鉄道や京阪電鉄などの設立にも関わるなど日本の交通史の様々な部分で関わりがあります。

これら渋沢栄一氏が関わった企業に関しては「渋沢栄一記念財団」のホームページにデータベースがありますので、一度ご覧下さい。「この企業がこんなところで渋沢氏につながっていたのか!」と驚きますよ。

www.shibusawa.or.jp

 

しかし流石に航空関係はないだろう、と思って見てたら・・・

 

航空にも関わりがありました(汗)

eiichi.shibusawa.or.jp

渋沢栄一記念財団の関連会社名変遷図の「交通・通信」の欄の中に「航空」の項目があり、それによると1927年に政府が立ち上げた「航空輸送会社」の設立準備委員会委員長を務め、翌1928年に設立された「日本航空輸送株式会社」では発起人、設立委員長となり、株主でもありました。渋沢氏が無くなられたのは1931年ですから、最晩年の87~88歳頃に設立に関わったんですねえ・・・

そしてこの「日本航空輸送」、1929年に立川飛行場をベースに運航を開始し、1931年には羽田空港に移転しています。東京~大阪や大阪~福岡と言った国内線のほかに、朝鮮や大連などを結ぶ路線も運航していたようです。その後1938年に国際航空と合併して「大日本航空」となり、国策会社として国内や占領地への民間航空輸送を一手に引き受けることになりますが、1945年8月のポツダム宣言受託によって日本の航空機は民間も含めて全て製造、運用と言った航空活動は禁止され、大日本航空も10月31日に解散します。残念ながら渋沢栄一氏が関わった日本航空輸送の系譜につながる会社は敗戦とともに消え去ってしまいました。

 

戦前の民間航空については大日本航空解散で一旦歴史が断絶した事もあって残された資料は少なく、不明な点が多くあります。渋沢栄一氏がどのような経緯で民間航空の設立に携わったのか気になりますが、ネットを少し調べた程度では分かりませんでした。航空輸送会社の設立準備委員会にも病気で出席できない日も多かったようなので、設立準備委員長の肩書はあっても主導的な立場ではなかったようです。推測ですが、航空輸送会社計画は渋沢栄一氏が主導的に設立に奔走したというよりは、象徴としての「渋沢栄一」のブランドが欲しかった航空輸送会社の設立メンバーや設立を主導した政府が渋沢氏に協力を頼んだ、と見るのが自然でしょう。

それでも様々な業界に足跡を残し「日本の資本主義の父」と言われた実業家・渋沢栄一が最後に関わった事業の一つが航空業と言うのもなんだかロマンを感じますね。機会があれば一度、東京や生まれ故郷の埼玉県深谷市にある渋沢栄一氏の資料館に行って、ゆっくりとその足跡を辿りたいものです。多分これから凄く混みそうですが・・・

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