〜Aviation sometimes Railway 〜 航空・時々鉄道

航空や鉄道を中心とした乗り物系の話題や、「迷航空会社列伝」「東海道交通戦争」などの動画の補足説明などを中心に書いていきます。

人口動態や温泉観光客数から見た大聖寺・動橋の勢力争い

随分久しぶりになりましたが、新シリーズ「交通機関の栄枯盛衰」の第一作目「加賀湯けむり特急戦争」の前編をアップしました。原稿はできているのでこれから後編の編集に入ります!


【交通機関の栄枯盛衰】街と温泉の存亡をかけた仁義なき戦い!加賀特急戦争(前編)

 

 

 

さて、今回は動画の背景部分のうち「人口動態から見た大聖寺と動橋の勢力図」「加賀温泉郷の観光客数から見た温泉街の勢力図」の部分を掘り下げて、大聖寺と動橋の勢力争いを考察して行きたいと思います。

 

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・人口動態から見た大聖寺と動橋の勢力図

1958年に合併で誕生した加賀市ですが、合併前の旧町村の人口比はどんな感じだったのでしょうか。

 

加賀市内旧町村の人口(出典・加賀市史)

   1960年   1970年

総数 54548人  56514人

大聖寺町 14746人  14186人

山代町 11438人  13710人

片山津町 11310人  12027人

動橋町 4856人  5458人

橋立町 3756人  3441人

三木村 1994人  1798人

三谷村 1407人  1759人

南郷村 3729人  2932人

塩屋村 1312人  1203人

 

人口比で言えば大聖寺町が一番多いのですが、温泉街を抱えている山代町、片山津町も1万人を超えており、合併直後は数千人の差が開いていた人口も、加賀温泉駅が開業した1970年は大聖寺町の人口は微減、一方の山代町は人口が伸びて大聖寺町に迫る勢いです。やはりこの頃は加賀温泉郷の勢いは大きく、加賀市の経済を引っ張る存在だったようです。

また、意外にも動橋町の人口も数百人単位で伸びています。恐らく経済成長とベットタウン化などで人口が増えたのではないでしょうか?逆にかつては北前船で栄えた橋立町は人口減少しています。加賀市の中でも栄枯盛衰があったようですね。

 

・加賀温泉郷の観光客数から見た温泉街の勢力図

 

動画内では「戦後すぐは山中温泉が盟主だったが片山津温泉がレジャーブームの波に乗って急速に宿泊客を増やし、その後1965年に山中を抜いて盟主となった」としていますが、もう少し細かく見て行きましょう。なお、山中温泉は大聖寺が最寄り駅、片山津・山代温泉は動橋が最寄り駅、粟津温泉は粟津が最寄り駅です。

 

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まずは戦後すぐの1946(昭和21)年。数字は全て加賀市史からの出店です。なお、小松市にある粟津温泉に関してはこの頃の数字は手持ちの資料になかったので割愛します。

山中 153846人

山代 18412人

片山津 125659人

 

山中温泉が最大ではありますが、片山津も結構利用者が多いですね。一方の山代温泉は他の2温泉に比べて温泉客が明らかに少ない事が分かるかと思います。これは温泉の権利問題などで町や組合などが長年対立し、温泉街の開発や観光客誘致が進まなかった為で、山代温泉の停滞は地理的なものというよりは人的なものであると言えます。

 

 

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次にそれから10年後の1956(昭和31)年。ここからは粟津温泉の数字もあるので一緒に記載します。

山中 31.7万人(1946年比105.8%増加)

山代 8.4万人(366.7%増加)

片山津 22.6万人(79.9%増加)

粟津 11.9万人

 

10年前に比べると山中、片山津も温泉客数は倍になっています。一方の山代は4倍以上とその増加ペースは大きいですが、この頃はまだ山中・片山津はおろか小松市の粟津温泉にも負けています。駅の勢力図的には大聖寺と動橋の互角と言ったところでしょうか。

 

次は特急「白鳥」が運転を開始した1961(昭和36)年。

山中 52.4万人(1956年比65.3%増加)

山代 31.7万人(277.4%増加)

片山津 42.0万人(85.8%増加)

粟津 20.8万人(74.8%増加)

 

依然として山中がトップですが、その伸び率は他の温泉に比べるとやや鈍化しています。一方の山代温泉は相変わらずの高い伸び率で、片山津温泉と合わせると山中温泉を超えています。この頃は温泉客利用に限って言えば動橋の方が優勢でした。

 

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次は加賀温泉駅が開業した1970(昭和45)年。

山中 65.9万人(1961年比25.8%増加)

山代 70.6万人(122.7%増加)

片山津 101.0万人(140.5%増加)

粟津 34.3万人(64.9%増加)

 

高度経済成長に伴うレジャーブームの波に乗り、片山津と山代は大きく利用者を伸ばしていますが、山中は駅や幹線道路から離れた立地が災いしたのか、その伸びは完全に鈍化しました。これだけを見ると勢いがある山代・片山津を抱える動橋の方が有利なように見えますが、既にこの頃は温泉客輸送はマイカーや貸切バスによる自動車輸送にシフトし始めており、仮に加賀温泉駅がなかったとしても動橋駅にはそこまで有利には働かなかったかもしれません。

 

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最後に手持ちの記録が残っている1978(昭和53)年。この間、1973年10月17日には北陸自動車道小松~丸岡間が開通し、片山津IC、加賀ICが供用開始。この頃には敦賀~富山間がつながっており、2年後の1980年には米原JCTまで延伸して関西方面とダイレクトにつながりました。

 

山中 59.4万人(1970年比9.9%減少)

山代 135.6万人(92.1%増加)

片山津 135.8万人(34.5%増加)

粟津 50.4万人(46.9%増加)

 

加賀温泉駅から一番近い山代温泉は相変わらず大幅に増加しており、高速道路のICから近い片山津、粟津もそこそこ増加しています。一方、加賀温泉駅からも高速のICからも一番遠い山中温泉はとうとう減少に転じてしまいました。交通機関の有無が温泉の明暗を分けてしまった格好ですね。

 

いかがでしたでしょうか。人口比や温泉の利用者数からも大聖寺と動橋の勢力図争いの優劣が伺えますし、当時の動橋の地位がかなり高かったことが分かるのではないでしょうか。また、交通機関の利便性が温泉の利用者数にも大きな影響を与えている事が分かりますね。この後の各温泉の勢力図は後編をアップした後に改めてご紹介したいと思います。

 

 

 

 

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