迷航空会社列伝、今回はエアアジア・ジャパン(2代目)を取り上げました。YouTubeでは既に公開中ですが、本日ニコニコ動画の方にもアップしましたので、そちらもどうぞご覧下さい。
迷航空会社列伝「郷に入ってもゴーイング・マイウェイ」2代目エアアジアが飛べなかったわけ
さて、2代目エアアジア・ジャパン就航までのグダグダは本編でじっくりご覧頂くとして、最近のエアアジアジャパンは愛知と札幌のFM局に自社提供番組を流したり、名古屋市と協定を結んだりと、本拠地である愛知県に溶け込もうとする努力をしていると触れました。エアアジア・ジャパンの姿勢の変化を表すエピソードとして紹介しましたが、エアアジア・ジャパンに限らず、近年の航空会社は本拠地の特色を自社カラーに取り入れる「ローカライズ化」が進んでいます。
ANAやJALのような全国津々浦々に路線網を張り巡らす大手航空会社は「日本の代表」として日本全国どこでも高品質なサービスを提供する傾向にありますが、中堅以下の規模の会社は自社の特色を出し、本拠地となる地域に根差したサービスやプロモーションを行う事で他社との差別化を図り、地域の支持を集めて根強いファンを作った方が得策です。今回はそんなローカライズ化が進む航空会社を紹介しましょう。
・日本トランスオーシャン航空・琉球エアコミューター
ローカライズ化の元祖ともいえる日本トランスオーシャン航空。ここではその子会社である琉球エアコミューターもまとめて紹介します。日本トランスオーシャン航空の前身の南西航空が設立されたのは1967年。この時はまだ沖縄はアメリカの占領下にありましたが日本の航空会社との位置づけを強くしたかったこと、また日本航空系列の会社として設立されたことから、初期の塗装は日本航空の塗装に近いものとなり、尾翼にも日の丸が付けられました。
その後、1972年に沖縄が返還され、名実ともに日本に復帰すると、南西航空は「沖縄の翼」としての立ち位置が強くなります。当時はまだ航空運賃はほぼ横並び、グループ間の乗り継ぎやブランドイメージの統一などもさほど行われていなかった時代でしたので、日本航空に合わせた塗装を施すよりも独自のカラーリングで沖縄色や日本航空との違いを打ち出した方がいいとの判断が動いたのか、1978年のボーイング737導入を機にオレンジベースの南国らしい塗装に塗り替えられます。以後15年間、南西航空は「沖縄の翼」としての位置づけを強めました。
しかし1993年4月、南西航空は社名を「日本トランスオーシャン航空」に変更し、塗装も尾翼以外は親会社のJALに準じた塗装になりました。これは沖縄県内路線だけだった南西航空が1986年の那覇~松山線を皮切りに次々と本土路線に進出し、「沖縄のローカル航空会社」のイメージがべったりついてしまった「南西航空」の社名と塗装が、全国展開の面で逆に足かせになって来たためでした。さらにこの頃になると国内幹線のみだったJALグループも全国にネットワークを広げるようになり、このままJALと無縁の南西航空の名前で飛ばすよりもブランド力の高いJALのグループの一員として路線展開した方が特に本土の利用者の集客には有利との判断も動きました。
現在では社名以外はJALと共通の塗装であり、子会社の琉球エアコミューターの機体もしっかり鶴丸塗装です。しかし、現在でも日本トランスオーシャン航空はJAL本体には吸収されず、便名も別会社のまま。これはJALだけでなく、沖縄県を始めとした沖縄資本も出資してる関係もあると思いますが、「沖縄の翼」として発展した経緯があるだけに、JAL本体に吸収するよりは沖縄ローカライズの別会社で残して独自色を残した方が沖縄県の支持を得やすく、集客面でもANAとの差別化ができるとの判断でしょう。
実際、JTAはJALの機内誌とは別に独自の機内誌「Coralway」を発行していますし、RACはCA手作りのルートマップを搭載してローカライズ感を出しています。機内に関してもクラスJのヘッドレストカバーは沖縄伝統工芸の「紅型(びんがた)」ですし、LEDライティングも沖縄の海をイメージしたエメラルドグリーンを採用するなど、基本的にはJALと同じサービスながら所々にさりげなく沖縄らしさを出しています。こうしたさりげない独自性はブランドはJAL一色でも完全には染まらず、「沖縄の翼」のアピールを忘れないJTAの意地と誇りを感じることができます。
・日本エアコミューター
JALとJASの経営統合でJALグループとなった日本エアコミューター。設立当初は奄美群島のコミューター路線開拓が目的であり、会社の出資比率もJASが60%、鹿児島県や奄美群島の市町村が40%を出資する第三セクターでした。
しかし、大阪発着のYS路線を移管されたあたりから会社の性格はJAS系列のプロペラ機路線担当会社になり、路線も西日本一帯に広がりました。さらにJALグループとなった後は伊丹空港のジェット機乗り入れ制限でボンバルディアダッシュ8-400型が伊丹路線で大量に必要になったこともあって、松本や新潟と言った東日本の空港にまで路線網が拡大。遂には松本~新千歳線就航で鹿児島の第三セクターが北海道路線を運航するという事態になってしまいました。
しかし近年はATR42-600の就航とダッシュ8-400の退役で、本来の設立目的であった、鹿児島の離島路線を中心にしたコミューター航空会社に回帰しつつあります。伊丹空港のジェット規制緩和で無理矢理プロペラ機で飛ばす必要が無くなり、ジェイエアのエンブラエル機で代替できるようになったためです。ATRの1号機と2号機は奄美群島の多くの市町村の花となっているハイビスカスを描いた特別塗装となり、医療設備の少ない離島の特性に配慮してストレッチャーを搭載可能にしたりとローカライズな機体。2016年秋からはJAC独自の機内誌も発行するなど、鹿児島を中心とした地域の翼としての立ち位置を強めています。伊丹~但馬線など鹿児島県に関係のない路線も多少は残りますが、今年の6月からは奄美群島アイランドホッピングルートも開設されるなど、今後のJACは「鹿児島・奄美群島のためのエアライン」としての性格を強めていくのではと思います。
・エアドゥ
元々スカイマークに次ぐ「新規航空会社」の第2号として1998年12月に就航した北海道国際航空ことエアドゥ。当初から北海道の地場企業が中心となって設立し、北海道庁も出資した「北海道の翼」でしたが、スカイマークに比べて脆弱な地盤と航空事業に明るい人材の不足、甘い需要予測と経営計画が災いし2003年に経営破たん。その後はANAを中心とした新たなスポンサーの下で再建しましたが、予約システムはANAのものを使用、全便ANAのコードシェアと、経営的には独立しているものの、事実上のANA傘下の航空会社となりました。
とは言え、エアドゥが現在でも「北海道の翼」である事には変わりありません。現在のエアドゥの路線は全て北海道の空港を発着しており、北海道外で完結する路線はひとつもありません。機内誌も北海道各地を紹介するものですし、サービスに関してもドリンクは日本茶以外は全て北海道に関係したものを用意。機内オーディオも北海道にゆかりのある人物がパーソナリティを務めたり機内販売のビールもサッポロクラシック。ここまで一地域を前面に押し出している航空会社もそうはないのではないでしょうか。航空券販売はANAに依存しても、サービスには北海道色を前面に出してエアドゥらしさを出す。これも一つのローカライズ化の形なのかも知れません。
と、ここまで3社を紹介してきましたが、ローカライズ化している航空会社はまだまだあります。ここでいったん区切って、後編では究極のローカライズ航空会社、天草エアラインと関西拠点にローカライズ化したLCC、ピーチをご紹介しましょう。
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