東急100年史や以前に購入した東急50年史など、東急社史や東急に関する書籍を読んでいると、東急グループの幅の広さと企業数の多さに驚かされます。大手私鉄のグループ企業というと、バスや地方鉄道などの交通関係に、百貨店やスーパーなどの小売事業、ホテルや旅行代理店と言った観光サービス業辺りが定番ですが、東急の場合は他の大手私鉄ではあまり見られなかったり、片手間でやるには規模が大きすぎるグループ会社がいくつも存在しています。
例えば東急建設や東急不動産。グループに建設会社や不動産会社を保有する大手私鉄は他にもありますが、東証プライム上場の大手レベルまで育てたのは東急くらいでしょう。また「東急の空への夢」の最後に出てきた空港運営会社「仙台国際空港」や、昨年開局したBSテレビ局「BS松竹東急」も、大手私鉄が手がける事業としては異例なものです。
しかし、昔の東急グループの手の広げっぷりはこんなものではなく、当ブログや動画でも紹介した航空事業の他にも自動車製造業に食品製造会社、石油精製事業に銀行にと、およそ私鉄経営とは何の相乗効果もなさそうな業種の会社も結構持っていました。今回は「え?この会社って東急グループだったの?」と思うような会社を紹介していきたいと思います。
新中央航空
前回の記事でもご紹介した新中央航空。調布飛行場を拠点に伊豆諸島への離島路線を飛ばす不定期航空部門と、龍ケ崎飛行場を拠点んした事業航空部門を持つ会社であり、現在は鉄骨・橋梁大手の川田工業の100%子会社です。
しかし、新中央航空のHPにも川田工業及び持ち株会社の川田テクノロジーズのHPにも新中央航空が東急グループだったという記載や詳しい沿革は無く、1994年に新中央航空が川田グループ傘下に入ったという記述だけ。川田グループ入りする前の沿革及び資本関係はネットで調べてもよく分からず、今回の東急100年史でようやくその部分が分かった次第です。
新中央航空は1978年12月に東急の100%出資で設立された会社で、翌1979年2月に不定期航空輸送免許を取得しました。と言っても一から航空事業をやろうとしたわけではなく、既に存在して3月に清算予定だった旧中央航空の資産及び営業権を譲り受けるための受け皿会社でした。譲受した同じ月に調布~新島路線を開設し、1980年10月に新潟~佐渡線を日本近距離航空(後のエアーニッポン。現在は全日空本体に吸収)から引き継ぎ、1984年12月に調布~大島線も開設します。機材は当初9人乗りのアイランダーでしたが、1987年から15人乗りのノーマッドも投入(どうやら長崎航空から転売された機材のようです)伊豆諸島への生活路線のみならず、観光路線としても活用されました。
そんな新中央航空ですが、前述の通り1994年に川田グループに売却されて東急の手を離れました。売却に至った経緯は100年史でも書かれていなかったので詳細は不明ですが、JASのヘリコプター事業も1992年に終了し、この時既に川田グループ入りしていた東邦航空に売却されたので、この時に関係ができた川田グループから新中央航空の売却も打診されていたのかも知れません。東急側も沿線外の調布や龍ケ崎を拠点にする新中央航空を持ち続ける必要性は薄いですし、両者の利害が一致しての売却だったかも知れません。
国民相互銀行
1953年6月19日に中小企業融資拡充のために設立された相互銀行で、翌1954年に五島慶太率いる東急グループが資本参加、東急系列の相互銀行となりました。最近、JR東日本が銀行業への参入を発表しましたが、それ以前に鉄道会社が銀行業を営んでいたのは、少なくとも戦後ではこれが唯一のケースではないでしょうか?
東急時代には東急バスの集中計算センター設置に協力するなど、グループ内でも一定の存在感はあったようですが、1973年に海外事業整理の資金捻出のために小佐野賢治率いる国際興業に売却。以後は国際興業グループの銀行となり、1989年に第二地方銀行に転換して国民銀行となりますが、1999年に712億円の債務超過となり、経営破綻。八千代銀行(現きらぼし銀行)に営業譲渡されて清算されました。
東急エビス産業
1956年に東急グループ入りしていた日本糖蜜飼料と倉庫会社の横浜共同埠頭を1961年6月に合併させて発足した畜産用配合飼料の製造・販売を手がける会社。畜産製品の需要急増に伴い、家畜の餌となる配合飼料も急拡大しており、東急エビス産業も東証・大証一部上場を果たす程の急成長を遂げます。
しかし、1960年代後半になると業界内の競争激化と貿易自由化に伴う外資参入で業界再編圧力が高まります。そんな折、三菱商事から三菱系の同業二社と東急エビス産業の合併を打診され、事業整理のさなかだった東急もこれに応じます。1971年7月に東急エビス産業は三菱系の菱和飼料とともに同じく三菱系の日本農産工業に吸収合併されて消滅。ちなみに日本農産工業は合併後に「ヨード卵光」をヒットさせ、2009年に三菱商事の完全子会社となって現在も存続しています。
東亜石油
現在は出光興産傘下の石油精製会社である東亜石油。この会社もほんの数年間だけですが、東急グループだったことがあります。1955年に川崎に製油所を新設し、石油精製事業に進出しましたが、この東亜石油株の買い取りを持ちかけたのが白木屋買収騒動の時にも出てくる横井英樹。東急も1954年からガソリンスタンドの経営を始めた頃で、自社のバスやトラックなどの燃料供給元及び石油製品販売事業拡大のために東亜石油株買収に乗り気になりました。
1957年に2度にわたって東亜石油株50%を取得して傘下に収めましたが、4年後にアラビア石油に売却して石油精製事業から撤退します。その後東亜石油は共同石油グループを経て1979年に昭和石油(後に合併で昭和シェル石油)の傘下に入り、2005年に子会社化されます。さらに2019年には出光興産と昭和シェル石油の経営統合に伴い、出光石油の子会社となり、現在は完全子会社化されています。
ゴールドパック
1959年3月に東洋食品として設立され、1964年5月に現社名に変更した東急グループの食品製造会社。この会社は買収ではなく、最初から東急グループが設立に関わっています。
設立の理由は五島慶太が晩年に「故郷の長野県で農家の育成や農産物の安定供給、雇用を増やしたい」という意思を受け継いだものであり、松本市に工場を建設してトマトを中心とした果実・野菜飲料やミネラルウオーターの製造・販売、大手飲料メーカーからのOEM製造などを手がけていました。業績自体は好調を維持しており、設立の経緯もあって他の製造業が売却されるなか、ゴールドパックは東急グループに貢献していました。
しかし、90年代後半に東急グループの経営危機が表面化し、特に業績の悪かった東急百貨店の収支改善が急務となると、銀行からの融資継続の条件として「不採算店の整理」「有利子負債の圧縮と資産及び子会社の売却」などを求められました。この時東急百貨店傘下だったゴールドパックは他の子会社とともに売却の対象となり、一旦2001年に東急電鉄の完全子会社とした後に2003年から2011年にかけて全ての株を売却し、経営から手を引きました。
設立の経緯も考えると、東急はゴールドパックを手放したくはなかったようであり、東急100年史でも売却せざるを得なかった無念さがにじみ出ています。その後ゴールドパックは一旦丸紅系の投資会社傘下となった後に2012年9月に産業ガス大手のエア・ウォーターに売却。2014年にニチロサンパックを吸収して現在も存続しています。
シロキ工業
自動車部品製造を行う会社ですが、この会社の場合は東急が直接買収したわけではなく、別の会社を買収したときに一緒にくっついてきた、と言った方がいいかもしれません。
社名からも分かるかと思いますが、この会社は前述した白木屋が1946年3月に設立した「白木金属工業」が前身であり、白木屋の関連会社でした。その後1958年に白木屋が東横百貨店に買収されたことで一緒に東急グループ入りしますが、自動車部品と百貨店は何の関連性もないことから1964年に東急電鉄と東急車輌製造が半分ずつ白木金属工業株を購入して東急の直接関連会社となります。モータリゼーションの発展に伴い白木金属工業も業績を拡大し、後に株式上場を果たし、トヨタ自動車も株式を取得して1988年に現在の「シロキ工業」に社名変更しました。
シロキ工業は東急グループ内でも指折りの好業績を維持しており、90年代後半のグループの経営危機の際も安定して黒字を出し続けた数少ない上場企業でした。2000年代には従来からの北米に加え、中国や東南アジアなどに進出するなど経営規模も世界規模に拡大し、2002年度と2009年度には東急グループでも表彰されるなど優良企業であり続けました。
しかし、東急グループが東急線沿線の開発に回帰し「交通」「不動産」「リテール関連」の3つをコア事業と位置づけると、グループ内に製造業を持ち続ける意義を見いだせず、2011年4月に東急保有株の大半をトヨタ自動車とアイシン精機に売却。2016年3月には残りのシロキ工業株もアイシン精機に売却され、シロキ工業はアイシン精機の完全子会社となりました。今年1月には4月1日付で社名を「アイシンシロキ株式会社」に変更する予定ですが、「シロキ」の名前は引き続き残ることになります。
しかし、かつての老舗百貨店だった「白木屋」の名前が百貨店とは全く関係ない自動車部品製造会社に残り続けるというのも考えてみたら不思議な話ですね。
日東タイヤ
1949年に旧昭和ゴム相模工場を拠点に設立された日本6番目のタイヤメーカーで、東急は設立当初から25%を出資していました。東急がこの会社に出資した理由はタイヤ不足でバス事業の復興が進まなかったためであり「じゃあ自分で作るわ!」と言わんばかりに新たなタイヤメーカー設立に動いたのです。
当初は朝鮮戦争特需で好業績を上げたものの、戦争終結後は一気に経営が悪化し、東急が資金援助を行うと同時に役員も送り込んで自ら経営再建に乗り出します。アメリカのタイヤメーカーから技術提供を受けて品質向上に取り組み、国内外に営業拠点を増やして販売網を強化。結果創業10年目の1959年には従業員1000人を超える企業に成長し、安定した業績で配当を出し続けました。
しかし、日東タイヤの国内シェアは6%程度と下位に甘んじ、単独でのシェア拡大は難しい状況でした。最終的には熾烈な販売競争に打ち勝つにはタイヤ生産・販売に密接な関係を持つ大企業に渡すのが得策と判断し、1968年12月に三菱化成工業(現:三菱ケミカル)に売却。その後横浜ゴムと提携したりしましたが、1979年に提携を解消し東洋ゴム(現:TOYO TIRE)と包括提携。1982年に工業用ゴム製品や樹脂製品の製造・販売に業態転換し、タイヤ製造部門は新設の「菱東タイヤ」にブランドごと譲渡して撤退。社名も「日東化工」に変更しました。会社は現在でも存続しています。
一方の日東タイヤブランドは東洋ゴムの一部門として存続しますが、販売不振が続いて90年代にブランド存続の危機に陥ります。そこで日東タイヤはカスタマイズカー向けのタイヤ開発に社運をかけ、見事支持を得ることに成功。大口径で利益率の高い「NITTOタイヤ」は、今やTOYO TIREの大きな収益源となっています。
余談ですが、TOYO TIREは元東急グループの箱根ターンパイクの命名権を取得したことがあり、2007年から14年までは「TOYO TIREターンパイク」と名乗っていたことがあります。日東タイヤもターンパイクも東急グループ離脱後の話ですが、意外と元東急の会社に縁がありますね。
東急くろがね工業
この会社は「東急の空への夢」でも言及していますが、東急グループ入りした経緯や倒産に至った経緯を改めてご説明します。
東急グループが自動車製造業に関わったのは1954年、三輪自動車メーカーの日本内燃機製造株19%を取得してからでした。その後、戦前はダットサンと並ぶ名門自動車ブランドだったものの、経営破綻したオオタ自動車工業も傘下に収め、1957年にこの両社を合併して日本自動車工業を発足させます。当初は旧日本内燃機製造の「くろがね」ブランドと旧オオタ自動車工業の「オオタ」ブランドを併存するつもりでしたが、オオタブランドは販売不振でまもなく撤退。より知名度の高いくろがねブランドを前面に出して、1959年6月に社名も「東急くろがね工業」に変更し、埼玉県上尾市に新工場を建設して再起を図ることにしました。
そして、東急くろがね工業が再起をかけて1959年に送り出したのが、軽四輪トラックの「くろがねベビー号」でした。ベビー号自体は画期的な商品であり、好評を持って迎え入れられ、発売初年度は16000台以上の受注を獲得しました。
しかし、翌1961年にダイハツがハイゼットを発売したのを皮切りに、富士重工業(現:SUBARU)がサンバーを、スズキがスズライト・キャリイなど、資本力も技術力も販売網も上回る大手メーカーが次々と軽四輪トラック事業に参入し、販売網が脆弱だったくろがねベビー号は競争に敗れ、販売台数は激減。東急くろがね工業は1962年2月に不渡りを出し、会社更生法適用を申請して事実上倒産しました。
経営破綻に伴い、くろがねベビー号は生産中止となって自動車製造業から撤退、代わりに日産自動車の支援を受けてエンジン製造などの下請けで急場をしのぐことになります。その後、会社としての東急くろがね工業は更生計画に基づいて1964年に解散し、製造部門は新会社の東急機関工業に譲渡されます。一方、生産部門以外の事業は東急興産に吸収され、1970年には東急機関工業自体も日産自動車に売却。翌71年には日産工機に社名変更し、東急は自動車製造業から完全に撤退しました。
ちなみに、日産工機自体は自動車用のエンジンユニットやアクスルユニット、パワートレイン用の部品を製造しており、日産自動車にとっても必要不可欠な企業となっています。一方、東急くろがね工業が「東洋のデトロイト」を目指して社運をかけて建設した上尾工場ですが、自動車工場としては再利用されず、1970年代半ばには再造成されて住宅地やスーパーマーケットになったようです。
何で東急グループはこんなに手を広げたの?
それにしても、なぜ東急グループはこれほどまでに私鉄経営と関連性の薄そうな事業に手を出しまくっていたのでしょうか?それは東急グループの事実上の創始者である五島慶太の買収攻勢にあります。
「強盗慶太」の異名を持つほど企業買収に積極的だった五島慶太ですが、晩年はその買収攻勢はエスカレートする一方で、本業の鉄道や、百貨店や不動産と言った鉄道とのシナジー効果が得られる事業とは無関係な買収案件も少なくありませんでした。息子の五島昇でさえ「止めた方がいいと思った事業もあったが、止めたらショックで死んでしまうと思って止められなかった」「父が手がけた買収は最後の10年は全て失敗だった」とこぼすほどでした。確かに、これまで紹介した元東急グループ企業のうち、新中央航空以外は五島慶太の時代、それも戦後から亡くなるまでの10年前後で買収・設立された会社であり、その大半は慶太の死後10年程度で売却されたので、「最後の10年は全て失敗」というのはある意味当たっています。
五島慶太の死後しばらくの間、五島昇は「多摩田園都市開発の継続と完成」「東急くろがね工業や東映をはじめとしたグループ会社の整理」に追われており、特に東急くろがね工業は法的整理に追い込まれて東急本体の業績も悪化させる程のダメージを与えました。一方でもう一つの遺産である多摩田園都市の開発と新玉川線建設は東急に大きな利益と新たな経営基盤をもたらし、東急くろがね工業のダメージを一掃しました。良くも悪くも五島慶太が残したものが大きすぎたことが窺えます。
一応フォローを入れておくと五島慶太が戦後に手がけた買収全てが失敗というわけではなく、じょうてつは現在でも北海道での東急グループの中核企業ですし、直接的な買収ではないものの、シロキ工業は最後まで利益を出し続けて東急グループに貢献しました。しかし、現在の東急グループを支えているのは東急不動産や東急建設、東急ホテルズに東急エージェンシーに伊豆急行と言った、東急が自力で設立して育てた会社が大半であり、やはり自分たちの力で地道に拡大した事業の方が後々身につく、というでしょうか。