〜Aviation sometimes Railway 〜 航空・時々鉄道

航空や鉄道を中心とした乗り物系の話題や、「迷航空会社列伝」「東海道交通戦争」などの動画の補足説明などを中心に書いていきます。

単なる「2代目のボンボン」ではなかった五島昇氏の大きな功績

「東急の空への夢」第7話をアップしました。現在YouTube、ニコニコ動画双方で公開中ですので、是非ご覧下さい。


東急の空への夢7話「叶う夢・志半ばで果てる夢」国際線進出の陰で・・・

 

さて、今回でTDA設立の原動力となり、ある意味このシリーズの主人公の一人とも言える五島昇氏が退場しましたが、このシリーズだけ見ている方、特にTDA設立までの経緯や田中勇氏をTDA社長にするための裏工作だけを見てしまうと「五島昇はロマンの為に航空事業に手を出して大やけどし、その尻拭いを自分よりも年上の田中勇に押し付けるために時の総理まで担ぎ出して社長の椅子に座らせた」という少々情けない役回りになってしまってます。それ故ニコニコでのコメントも五島昇氏に手厳しいものが結構ありましたし、実際、五島慶太存命時の昇氏の評価は「仕事に熱を入れない、ゴルフ三昧の遊び人」と典型的な放蕩息子扱いで、カリスマ五島慶太亡き後の東急はガタガタになる、というのが世間の下馬評でした。

しかし実際の五島昇氏はカリスマ五島慶太亡き後の東急グループを上手く再編し、現在の基盤を確立した「東急中興の祖」であり、父慶太の負の遺産を整理する一方、本業の鉄道と関連性の高い事業を育て上げて選択と集中を行った「守勢の人」でした。また、財界活動を通じて幅広い人脈を築き、中曽根政権時にはブレーンの一人として行財政改革に関わっています。今回はそんな「東急中興の祖」五島昇氏について紹介していきたいと思います。

 

五島昇氏の功績1 「選択と集中」で東急グループの基盤を確立した

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1959年に父五島慶太氏が亡くなり、名実ともに五島昇氏が東急グループの実権を握ると、昇氏は東急グループを本業の鉄道との関りが深い交通、不動産、流通、レジャー、ホテル事業を中心とし、関連性の薄い事業からは段階的に手を引いて行きました。後述する東洋精糖買収からの撤退を皮切りに、東急くろがね工業、日東タイヤ工業、東映グループ、国民相互銀行など関連性の薄い企業を東急グループから切り離して行きました(東映については別の理由もあるので後述)。

その一方で、昇氏の時代には現在でも東急グループの中核を担う企業や事業がいくつも誕生します。東急不動産の建設部門を分離する形で誕生した東急建設、「西部警察」の制作にも関わった広告代理店の東急エージェンシー、全国チェーンの東急ホテルグループは五島昇氏の時代に設立されたものですし、「東急ハンズ」の生みの親も昇氏です。また、渋谷のランドマークの一つである「渋谷109」を生み出したのも昇氏。元官僚だった父慶太氏がハード面重視の大規模開発志向だったのに対し、レジャー事業や流通・ファッション事業と言ったソフト面の事業に注力したのはかつて遊び人だった昇氏らしいと言えます。父慶太とは別のベクトルで天性の才能があったのではないでしょうか?

 

 

功績2 五島慶太の「負の遺産」を処理して後顧の憂いを絶った

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東急グループの事実上の創業者である五島慶太氏は「強盗慶太」の異名通り、時には強引な手を使った買収を重ねて東急を大きくしていきました。特に晩年は子飼いの役員を派遣して日本各地の地方私鉄やバス会社、旅館・ホテル、スキー場などの交通・レジャー事業を買い漁ったり、名門百貨店の白木屋乗っ取り事件や、オート三輪メーカーの日本内燃機製造、四輪車メーカーのオオタ自動車工業の買収(のちに両社は合併して東急くろがね工業に)、国民相互銀行(のちの国民銀行、1999年経営破たん)への資本参加、果ては東洋精糖の乗っ取りを画策して執拗に買収工作を仕掛けるなど、手当たり次第に買収を仕掛けて行った感があります。

しかし慶太が買収した企業は本業とのシナジー効果が見込めなかったり、経営が悪化した企業ばかりで、いずれ東急グループの重荷となる恐れがありました。昇氏は「無理に買収を止めれば寿命を縮めるかも知れない」と思ったのと当時はまだ社内での発言権が弱かったこともあって父の暴走を止めることはできませんでしたが、1959年に五島慶太が亡くなり、自らがグループの総帥となると、「東急グループの仕事からはみ出している分野」「父がやみくもに買収して自分の手には負えない企業」を切る決意をします。

 

まず慶太の死後1か月も経たないうちに、父が最後まで執着していた東洋精糖買収からの撤退を決定。この時東急は東洋精糖株の過半数近くを買い占めていましたが、東洋精糖側も買収阻止の為新株発行や法廷闘争で対抗するなど泥沼化しており、このまま買収しても遺恨が残り、東急グループとのシナジー効果も得られないと判断した昇氏は保有していた東洋精糖株の全てを売却し、買収から手を引く決断をしました。買収に関わった社員からは昇への恨み節も出ましたが、この素早い決断と実行は財界や世論には好感を持って迎えられ、五島昇氏と東急のイメージ向上、そして五島氏自身の経営能力の疑念を払しょくする効果がありました。

また、動画内でも触れていますが自動車メーカー・東急くろがね工業の法的整理とグループ離脱も、父慶太の負の遺産の整理の一つでありました。この法的整理で東急は当時の金額で何十億と言う負債を抱え、昇氏自身も大きな非難を受け、マスコミに追い回されましたが、法的整理をしなければ東急グループ全体に修復不可能な傷を与える可能性があったため、荒療治をしてでも早期に整理する必要があったためでした。なかなか撤退の決断をできずに傷口を広げる経営者が多い中、敢えて非難の大きい法的整理をしてでも早期処理を選んだ昇氏の決断力と忍耐力は並みの経営者ではないでしょう。

 

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そしてもう一つ、父慶太の腹心中の腹心であり、東急グループ内でも大きな影響力を持っていた東急副社長兼東映社長・大川博を、東映の分離独立という形で切り離したことも、結果的には東急グループの確執の火種を排除し、グループの内部分裂を防ぐことになりました。元々運輸官僚だった大川は五島慶太のヘッドハンティングを受けて1942年に東急に入社し、大東急の事業分割や東急フライヤーズ(後の東急フライヤーズ、現北海道日本ハムファイターズ)の買収などで辣腕を振るいました。戦後の公職追放で五島慶太が東急から離れている間も経営の根幹に関わって東急を守り、1951年には倒産寸前だった東映の社長に就任してわずか数年で経営再建に成功。一時は五島慶太も大川を次期社長にすることを考えたほどのやり手でしたが、それ故昇との折り合いは悪く、昇が東急の総帥となった後はむしろ東急グループの内部分裂の火種となりかねない存在となりました。

そこで昇は1964年、東映を分離独立させる形で東急グループから離脱させます。東急は東映と言う「手切れ金」を大川に渡す形で将来の禍根を断ち切り、大川は名実ともに東映グループのオーナーとして「一国一城の主」となったわけです。東映グループの分離で東急グループは一時的に縮小しますが、最大の政敵を切り離したことで、結果的に東急グループは五島昇の下で結束する事になり、東急内での五島家の地盤を確固たるものにすることができました。

 

功績3 伊豆開発や田園都市開発などの「父の夢」はきっちり実現した

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その一方で五島慶太の悲願であった伊豆急行線の建設や、多摩田園都市の開発は父の計画通りに遂行しました。開業の伊豆急の経営危機にも腹心の田中勇氏を送り込んで再建に尽力したくらいですから、伊豆への思い入れは深いものだったと思います。特に南伊豆への思い入れは強かったようで、昇は休暇を南伊豆で過ごすことが多かったようです。朝四時に下田東急ホテルの近くから船を出し、夜に戻るまでずっとマグロやカツオを追いかけ、夜には釣り上げた魚を捌いて東急グループの主要企業の社長で酒盛りをする、というのが恒例でした。

また、多摩田園都市構想については五島慶太が亡くなった1959年に最初の分譲が始まり、1966年には田園都市線溝の口~長津田間が開業。この頃に初期の土地区画整理が終わり、多摩田園都市への入居が本格化しました。この開発が軌道に乗ったことで、東急は東急くろがね工業破たんの時の負債を一掃する事が出来、田園都市線は東横線と並ぶ東急のドル箱路線に成長します。また、多摩田園都市の成功をきっかけに不動産事業は鉄道と並ぶ東急の主力事業となり、東急不動産が不動産大手の一角に君臨するきっかけを作りました。

 

功績4 環太平洋地域の開発と交流に貢献した

東急グループを発展させる一方、五島昇氏は「環太平洋経済圏構想」という夢を持っていました。ハワイやグアム、パラオや太平洋沿岸の都市にシティホテルやリゾートホテルを建設し、それらの点を航空路と言う線で結んで人の流れを作り、経済効果を生み出すという構想で、環太平洋地域へのホテル建設や航空事業への執着はこの構想を実現するために必要なものでした。

結果的には五島昇氏の死とともにその構想は潰え、御存じの通り航空事業のJASはJALと統合して東急から離れ、環太平洋地域のホテル事業を担った「パンパシフィックホテル」も2007年に売却されてしまいましたが、ホテルチェーン自体は今でも残っており、オーストラリアや東南アジア、中国、カナダを中心に展開しています。

また、昇氏は事業開発だけでなく、現地の要人とも交流して人脈を築き、ホテル開発の際も極力自然を守る形で建設を進めました。まだリゾート開発の際の環境問題がクローズアップされる前の話ですから、昇氏は短期的な利益ではなく、長期的視野に立って自然と調和した息の長い開発を志していた事が伺えます。結果的には失敗となった「環太平洋経済圏構想」でしたが、現地のリゾート開発と日本からの観光客誘致には少なからず貢献したのではないでしょうか。

 

 

以上、「五島家の2代目」であり、「東急グループ中興の祖」とも言える五島昇氏の功績について見てきました。五島家は東急グループの企業の株をほとんど持っておらず、五島慶太個人の求心力でグループが結束していたようなものですから、資本力に頼れなかった昇氏は自らの力で東急グループをまとめ上げる必要がありました。もし五島昇氏が本当に「世間知らずのボンボン」であったなら、大川氏を始めとした東急グループの役員が結託して早々にグループから叩き出されていたと思います。そうなることなく、父親同様にグループの総帥として君臨し続けたのは、昇氏に実力とカリスマ性があった証明になるのではないでしょうか。

東急グループが空中分解しなかったのは紛れもなく五島昇氏の求心力のおかげですし、父が起こした企業集団を上手く時代に合わせて作り替え、現在も続く一大グループに育て上げたのは五島昇氏の手腕のおかげでしょう。無論、その脇には田中勇氏を始めとした優秀な役員が昇氏を支えたのも大きかったと思いますが、並みの人物では東急グループをここまで大きくすることはできなかったと思います。そういう意味では五島昇氏は非凡な人物であり、父親同様偉大な方だったのではないでしょうか。

 

 

 

 

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