〜Aviation sometimes Railway 〜 航空・時々鉄道

航空や鉄道を中心とした乗り物系の話題や、「迷航空会社列伝」「東海道交通戦争」などの動画の補足説明などを中心に書いていきます。

黎明期の日本のローカル航空会社

迷航空会社列伝、今回はかねてより当ブログやツイッター等で告知していました「東急の空への夢」の第一回をアップしました。通常はYouTubeに先にアップ→数日~一週間後にニコニコにアップ、と言う流れですが、このシリーズに関しては「迷列車で行こうシリーズ九周年祭」の関係上、先にニコニコにアップしました。今後最終回まではニコニコに優先アップしていきますので、YouTube派の方には申し訳ありませんがよろしくお願いします。

 


迷航空会社列伝「東急の空への夢」 第1話 第三の航空会社・日本国内航空

さて、第一回では富士航空→日本国内航空を中心に、日本航空、全日空以外のいわゆる「ローカル航空会社」にスポットを当てました。これらの会社は「不定期航空運送事業」、つまり毎日運航する定期路線ではなく、多客期のみ路線を飛ばす不定期航路や遊覧飛行を行う会社で、幹線はもちろん、羽田や伊丹発着の都市間路線にも携わる事は出来ず、地方間路線や離島路線、観光主体の路線で細々と運航するだけでした。

今回は日本国内航空発足以前の日本各地に乱立したローカル航空会社についてもう少し掘り下げて紹介したいと思います。とは言っても、半世紀以上前の話なので私の手持ちの資料やネットで調べた情報で分かる範囲ですが・・・

 

・北日本航空

1953年6月30日に設立。当初はセスナ機による不定期航空事業を行っていましたが、1955年10月に定期航空進出を目指し日本で初めてダグラスDC-3型1機を購入。1957年8月に札幌~女満別~西春別間の三角飛行路線を就航させますが、元々観光客主体で利用者は少なく、しかも当時はレーダー設備なんてない有視界飛行でしたから冬場や悪天候時は運航できず、公共交通機関としての役割を果たせない状態でした。

当然、業績は悪化の一途を辿り、繰越欠損金の増大でクビが回らなくなった北日本航空は東急に資本参加を要請します。この頃東急は定山渓鉄道や函館バス、北見バスなど北海道内の鉄道・バス会社に次々と資本参加しており、当時はまだ健在だった五島慶太も北海道の観光地としての潜在能力に目を付けて東急グループの北海道進出の陣頭指揮を取っていました。北海道、特に北部は道路網も貧弱で鉄道も本数が少なく、利便性は良くなかったため、五島は運航率はともかく高速で移動できる航空路線に将来性を見出し、北日本航空への出資を決めます。1959年7月30日、東急は北日本航空株24.4%を出資して資本参加します。くしくも五島慶太死去の2週間前の事でした。

その後、北日本航空は1962年に念願の定期航空免許を取得して道内路線を拡充しますが、それでも業績は回復せず、運輸省に長大路線、と言うか幹線の参入を懇願します。しかしそれは結果的にローカル会社の再編の引き金となり、運輸省は幹線参入したいなら合併しろと言う事で富士航空、日東航空との合併→日本国内航空誕生につながります。

・富士航空

富士航空については動画内でも説明したので多くは語りませんが、1952年9月13日に日本航空宣伝協会として設立し、その後富士航空→三富航空→富士産業航空と何度も社名が変わり、最終的には1956年7月1日に富士航空に落ち着きます。動画内で「従業員の給料6か月未払い」と書きましたが、窪田俊彦が社長に就任したころの富士航空は資本金4千万円、従業員45人の零細企業で、しかも社長就任後に唯一の資産のセスナ機も競売通知が来るほど追い詰められていました。負債総額8000万円、不渡り手形1億7000万円。よくもまあこの状態からよく持ち直したと思います・・・

・青木航空→日本遊覧航空→藤田航空

立川飛行機のテストパイロットだった青木晴男が不定期航空事業の認可を受け、1952年4月26日に設立。実は全日空の前身である日本ヘリコプター輸送や極東航空よりも早く設立されています。1953年には早くも八丈島に就航し、羽田~八丈島や羽田~大島路線を中心に伊豆諸島への路線を飛ばしていました。特に羽田~八丈島路線は日ペリ→全日空も週二便ながら飛ばしており、当時では珍しいダブルトラック路線でした。

その後青木航空は1956年6月に日本遊覧航空、1961年8月に藤田航空に社名変更しています。ウィキペディアなどでは記述はありませんが、恐らく藤田航空に社名変更したあたりで藤田観光が経営に参加しているのではないかと思います。理由としては社名に「藤田」がついている事や、藤田観光が伊豆諸島に航路を持っている東海汽船に出資し、伊豆大島に「大島小涌園」という旅館をオープンさせているなど藤田航空のテリトリーである伊豆諸島に縁が深い事が挙げられます。間違ってたら申し訳ないのですが、以前の社名を捨ててまでわざわざ「藤田航空」と改称したのだから藤田航空と無関係、って事はないと思いますし・・・

そんな藤田航空も経営悪化には勝てず、1963年には全日空への吸収合併が決まってしまいます。合併直前の8月28日は藤田航空のデハビランド・ヘロン(一旦東亜航空にリースされたものの、団体輸送用に急遽リースバックした機体)が八丈島で墜落事故を起こしてしまいましたが、11月1日に予定通り全日空に吸収され、姿を消しました。

 

・日東航空

1952年4月2日、日本観光飛行協会を前身に産経新聞社が設立。当初は阪急電鉄社長の小林一三にも経営参画を仰ぐ予定でしたが、結局産経単独の出資になりました。1955年1月1日に大阪~白浜間の運航を開始し、1958年3月1日には日東航空に社名変更します。その翌月には近鉄も資本参加し、大阪を拠点に白浜や新居浜、別府や徳島などに飛ばしていました。

 

「・・・え?新居浜や別府に空港なんてあったっけ?」と思われるかもしれませんが、日東航空の主力機は水陸両用機のグラマン・マラード。大阪側からは伊丹空港から離陸しますが、別府や新居浜、白浜は空港ではなく水上で離着陸していたのです。中には大阪―白浜ー串本―志摩ー名古屋という紀伊半島を一周するルートもありました。

しかし、当時でも既に水上機は主流から外れており、日東航空の水上機路線も輸送力の少なさや運航経費が嵩んだ事で経営は思わしくありませんでした。結局日東航空も1964年の日本国内航空の合併で消滅し、水上機路線も翌1965年10月に運航終了、マラードも全機売却されてしまいました。

・中日本航空

1953年10月、航空機使用免許を取得し、その年の11月には不定期航空運送事業免許を取得します。1960年には名鉄と中日新聞が出資し、1963年7月には全日空からDC-3を購入して定期航空路線に進出。1964年9月の時刻表を見ると、名古屋ー金沢(小松?)、富山、大阪線と大阪ー金沢線を運航していたようです。

しかし例によって利用は思わしくなく、1965年2月には定期航空路線を全日空に譲渡して撤退。以後は測量や災害輸送、ヘリコプターと言った事業航空部門に注力し、現在ではドクターヘリや災害時の救助活動、航空写真や報道取材と言った生活に欠かせない分野で強みを発揮しています。一時期は中日本エアラインサービスに出資して定期航空運送に戻るかと思われた時期もありましたが、現在は事業航空大手として確固たる地位を築いています。

・東亜航空

1953年11月30日に設立。当初は小倉を拠点にしていましたが1956年に広島に本社移転。当初は鹿児島発の離島不定期路線や広島発着のローカル路線が中心であり、1963年に不二サッシが資本参加します。その後は大阪空港や福岡空港発着のローカル線にも進出し、1965年5月15日には日本国内航空に続きYS-11を就航させます。

売上高ベースでは日本国内航空の半分、全日空の10分の1以下ですが、日本国内航空が幹線の失敗とジェット機などの固定費増加で20億以上の赤字を出したのに対し、東亜航空はその10分の1程度の赤字にとどまりました。東亜の場合は幹線のお鉢が回ってこず、ローカル線のみの運航にとどまりましたが、その分余計な投資もしていないのが結果的には幸いしたようです。1967年度に黒字化、1969年度に累積損失を解消していますが、いずれも日本国内航空も1年早く、小さいながらも比較的堅実な経営をしていたようです。

とは言え、西日本のローカル線だけの東亜航空と、曲がりなりにも全国展開している日本国内航空との差は広がっていきましたので、単独での経営は厳しかったと思います。最終的には1971年5月15日に日本国内航空と合併して「東亜国内航空」となり、会社消滅。それでも一度も合併することなく、自力でそれなりの路線網を築いたのですから、ローカル航空会社としては成功した方だと思います。

・長崎航空

1961年9月設立と、ローカル航空会社では一番遅くできた会社ですが、ある意味では最も長く命脈を保った会社とも言えます。長崎の大村空港(旧長崎空港)を拠点に福江、壱岐に離島路線を運航していた長崎の第三セクター会社(当時はそんな言葉はありませんでしたが)でしたが、例によって経営は思わしくなく、運輸省の航空業界再編の指導もあって1967年11月に全日空に定期航空路線を譲渡しました。

その後は中日本航空同様貸切・遊覧飛行や事業航空に専念していましたが、1980年5月に長崎~壱岐間のコミューター路線で旅客運輸に再参入します。その後1981年に長崎~上五島線、1984年に福岡~上五島線を開設するなど長崎県の離島路線を順次開設していきます。機材は基本的に9人乗りのブリテン・ノーマン・アイランダーを使用していますが、採算性は良くなかったようです。

一方で事業航空部門の大半を1999年に佐賀航空(現エス・ジー・シー佐賀航空)に売却し、機材も2001年にボンバルディアダッシュ8-100型2機を購入して「オリエンタルエアブリッジ」に変更します。全日空から長崎~対馬・福江路線などを引き継ぐ一方、上五島・小値賀路線を廃止しアイランダーを退役させるなど、機材の大型化と事業や路線の整理を進めました。

最近ではANAから福岡~宮崎・小松線が移管されていますが、機材はANA塗装のダッシュ8-400を使用、でも運航乗員と便名はオリエンタルエアブリッジと言う良く分からない運航体系となっています。全便ANAとのコードシェアとANA色が強まってきていますが、ある意味ローカル航空会社最後の生き残りと言えますから、独自色を出しつつ頑張って欲しいですね。

 

以上、1950年代~60年代前半に相次いで設立されたローカル航空会社を紹介してきました。各社のその後は大きく分けて全日空に合併または事業譲渡したグループ(藤田航空、中日本航空、長崎航空)と、東亜国内航空→日本エアシステムに集約されたグループ(北日本航空、富士航空、日東航空、東亜航空)に分けられます。今はANAかJALのどちらかの路線になっている各社の路線。何気なく乗っている路線にも、実は深い歴史があったりするのかも知れませんね。