〜Aviation sometimes Railway 〜 航空・時々鉄道

航空や鉄道を中心とした乗り物系の話題や、「迷航空会社列伝」「東海道交通戦争」などの動画の補足説明などを中心に書いていきます。

地域航空会社の業務提携は地方路線維持の切り札になるか

12月10日、新聞各紙が日本エアコミューター(JAC)、天草エアライン(AMX)、オリエンタルエアブリッジ(ORC)、北海道エアシステム(HAC)、ANAウィングスの地域航空会社5社が共同運行やパイロット訓練、機材共通化の面で業務提携する方向で最終調整していると報じました。実現すればライバル関係であるJAL系とANA系の会社が手を結ぶ世界的にも珍しいケースとなります。


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報道によると、まずは九州に拠点を置くJAC、AMX、ORCの3社で先行して提携の準備を始め、その後他の2社にも広げていくとの事。具体的な提携内容はコードシェアや機体整備、パイロット訓練の共同化、機体の共通化など広範囲になります。

元々は2016年に国交省が設置した有識者会議で「将来の人口減少で存続が危ぶまれる離島やローカル路線の維持」の方法を検討し、将来的な合併や経営統合を模索するよう各社に促したもの。これについては系列会社の問題や収支状況の違い、各社に出資する自治体の株をどうするかと言う問題や地域性が薄れる事への自治体の反発などで統合は困難と判断され、まずは「提携」という形に落ち着いたようです。

九州3社で先行して検討に入るのも、既にこの3社は旅行商品開発などで協力関係にあり、特にJACとAMXは既に同じATR42型を使用しており、整備やパイロット訓練、AMX機の整備で運航ができない時のJAC機のリースなど深い協力関係にあります。今後検討が進められるであろう各社の提携も、恐らくJACとAMXのケースがモデルになるのではないでしょうか。

 

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さて、このグループの枠を越えた地域航空会社の提携ですが、それ自体は生活路線でもある離島路線の維持と言う面では有益でないかと思います。しかし、実現には越えなくてはならないハードルが山ほどあり、国交省の思惑通りに提携効果が出るかは微妙な所です。

 

まず機材の問題。前述の通りJACとAMXはATR42型への置き換えで既に共通化を終えており、HACも同型機の導入を決定しましたので、この3社に関しては問題はないと思います。

しかし問題は残るORCとANAウィングスの2社。このうちORCは社名変更時から使用しているボンバルディアダッシュ8-200型の更新時期が近付いており、近いうちに後継機を決める必要があります。ところが昨年からANAウィングス保有のダッシュ8-400型のリースとANAウィングス運航路線の一部移管が進められており、将来的にどうしたいのか良く分からなくなってきています。JACやAMXとの提携を考えれば老朽化が進むダッシュ8-200型をATR機に置き換えて共通事業機とするのが妥当な所ですが、今の流れではダッシュ8-400を追加購入してANAウィングスと共通化する方向に向いているように見えます。

そしてANAウィングスの方もプロペラ機は長年ダッシュ8シリーズを使用しており、ATR機は入れる気はなさそう。かと言って絶賛ATR機置き換え中のJACなどの会社が今更ダッシュ8に戻すとは思えないので、選択肢はORCやANAウィングスがATRを買うか、完全統一はせず別々の機体を使うのかの二択しかありません。今後の提携協議ではこの点も問題になると思います。

 

そして一番大きなハードルは共同運行の方法。同じ便にANAとJALの両方の便名が付くにしても、予約システムをどうするかという問題が発生します。AMXやORCにとっては大きな負担となるばかりか、ANAとJALどちらのシステムを採用するのか、その場合採用しなかった会社のコードシェアはどうするのか、色々と揉める要素が多そうです。

それ以上にJAL系のJACやHACの路線にANAの便名をつけられるのか、逆にANAウィングスの便にJAL便名をつけられるのかと言う問題が残ります。大抵の離島路線はどちらか片方の会社しか路線がありませんから、個人的にはJAL系しかない奄美群島路線をANA便で予約できれば嬉しいですが、現実問題、ライバル会社に塩を売るような事が本当にできるのか疑問です。

 

色々と不透明感が残る今回の業務提携意向ですが、厳しさを増す離島路線維持の為には思い切った対策が必要なのも事実。ここまで来たからには系列の垣根を越えて本当に利用者や住民の為になるような提携にして欲しいところですね。まずは正式発表と具体的な提携内容を待ちたいところです。

 

↓天草エアラインの復活劇を紹介した書籍。最近文庫版が発売されたようで買いやすくなりました。

 

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東急の大番頭・東亜国内航空再建に尽力した田中勇ってどんな人?

前回の記事でもお伝えしましたが、先日「東急の空の野望」第2回をアップしました。

【8月18日追記】現在第5話までアップしています。諸事情によりYouTubeでは現在4,5話のみアップ、ニコニコでは全話アップしています。ニコニコの方のリンクを全話分張っておきますので、興味のある方は是非ご覧下さい。

 

 

 

 

 

 

 

第2回でこの話の主役ともいえる東急電鉄副社長・田中勇氏が本格的に登場してきました。彼が東亜国内航空の社長に抜擢(押し付け?)された理由は動画内でも簡単にお伝えしましたが、この動画で田中氏の事を知った方も多いかと思います。

今回は動画の補足説明として、田中勇氏の経歴をご紹介しましょう。なお、田中氏の経歴については本所次郎氏著の「昭和の大番頭 東急田中勇の企業人生」という本を基に書いています。現在は絶版になっているようですので古本でしか買えませんが、田中氏に興味を持たれた方は是非買って読んでみて下さい。

 

 

 

田中勇氏は明治38年(1906年)、茨城県水戸市に生まれ、大正15年(1925年)に東京高等工業学校電気科を卒業、その直前に東急の前身の一つ、目黒蒲田電鉄に入社しました。この時面接官だったのがその後の田中氏の人生に大きな影響を与える社長の五島慶太。「明日から来るように」と言われましたが「まだ卒業免状をもらっていない」と田中氏が答えたのに対し「俺は卒業証書を雇うんじゃない、お前を雇うんだ」と言ったエピソードが残っています。

本社電気課車輛係から東急でのキャリア(当時はまだ前身会社ですが)をスタートし、昭和3年(1928年)に元住吉工場に異動、昭和9年(1936年)には渋谷~新橋間の地下鉄建設を目指す「東京高速鉄道」に出向します。しかし田中自身は目蒲電鉄に戻りたがっていたようで、地下鉄開通後、上司に帰任を求めますが相手にされません。それならと勝手に目蒲電鉄に出社し空いている机に陣取って勝手に仕事をするという力技で既成事実を作り、その後正式に辞令が下りて目蒲電鉄(この年に東京横浜電鉄と合併し、社名も東横電鉄になります)に戻りました。

何とも無茶苦茶ですが、東京高速鉄道はその後昭和16年に東京地下鉄道と合併し、営団地下鉄になって東急からは離れましたから、もしここで強引にでも東急に戻っていなかったら、田中氏のその後の人生は全く違っていたかもしれません。

 

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東急に戻った田中氏は元住吉工場長、車両課長、修車部長を歴任し、1946年には取締役、次いで車輛部長となります。ここまでの経歴を見てお気づきかとは思いますが、田中氏の経歴は技術畑、それも車両部門が大半で、動画内で紹介したような上田丸子電鉄の買収や伊豆急の再建と言った経営サイドには全く結びつきません。実際、1955年に常務取締役に昇進するまでは運輸部長や電車部長と電車の運行に関わる部門のトップとして戦災復旧に奔走してきました。昇進も実績の割には事務方の同期に比べると遅かったようで、田中氏自身も取締役のまま会社人生を終えることになると覚悟していた時期もあったようです。

 

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田中氏が本格的に企業経営や買収に携わるようになるのは1958年の上田丸子電鉄の買収からでした。この頃は東急会長に復帰した五島慶太が手当たり次第に買収を進めていた時期であり、百貨店の白木屋や自動車メーカーの東急くろがね工業、定山渓鉄道・函館バスなど北海道の交通系企業、伊豆下田電鉄(現伊豆急行)設立による伊豆半島進出などを同時進行で進め、各方面の買収には子飼いの役員に当たらせました。

そして東急の買収の手は上信越地方にも向けられます。慶太が長野に目を向けたのは故郷の青木村への思い入れもありますが、伊豆や北海道同様、信州や越後にも東急グループの企業を作り、上信越国立公園を中心に観光事業で一大勢力を築くという野望、そして軽井沢の別荘開発で大成功を収めた西武グループの総帥、堤康次郎に対する対抗心もあったと思います。

そして、上信越方面の拡大作戦の陣頭指揮を執る事になったのが常務となった田中勇氏。上田丸子電鉄の買収は先方の課長クラスの幹部が東急に持ち掛けたものでしたが、東急傘下に入るのを良しとしない経営陣と対立し、結局乗っ取りとなった経緯がありました。買収後、田中は上田丸子電鉄の会長に就任し、この会社を足掛かりに白馬山麓や菅平高原の開発、地元旅館の買収などを進めて行きます。

また、長岡鉄道社長を務めていた田中角栄の要請で、新潟県長岡市に本拠を置いていた中越自動車の買収にも乗り出しました。田中勇氏が角栄氏と親交を持ったのもこの頃で、その後中越自動車買収に成功した東急は田中氏を社長を送り込みます。その後、中越自動車は長岡鉄道、栃尾電鉄と合併し、越後交通となりますが、その際、田中勇が社長、角栄が会長に就任しました。関連会社とは言え、彼に取っては初めての社長の椅子で、その後合併後の労働争議や、豪雪や水害といった自然災害にも対処することになります。

 

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そして1962年5月、想定よりも大幅に建設費が膨らんだ事で100億円近い借金を抱え、鉄道部門も赤字の伊豆急行の再建のために副社長として乗り込むことになります(社長は東急社長の五島昇)そこで彼がまず行ったのは徹底的な経費節減と、政治献金や寄付金のカット。経費節減はそれ自体が目的と言うよりも社員に会社の窮状を身をもって知ってもらうため、そしてコスト意識の植え付けという意識改革的な部分が大きいもので、後の東亜国内航空の再建でも同じ手法が用いられます。あまりのケチっぷりに五島昇氏はいつしか彼の事を「ケチな副社長=ケチ副」と呼ぶようになり、以後「ケチ副」は田中氏の愛称となって行きます。その後伊豆高原の温泉付き別荘販売や民宿の育成、ゴルフ場の整備などで観光需要を増やし、見事伊豆急の再建に成功します。

 

こうした田中氏の実績が認められて1966年には東急本体の専務に昇進、1969年には副社長に昇進します。この頃には五島慶太時代からの子飼いの腹心は田中を除いてグループ会社に出され、東急本体の経営からは離れて行き、名実ともに田中氏は東急のナンバーツーとなり、実務的に東急グループを取り仕切る存在となりました。その後1973年に東亜国内航空社長に就任し、TDA再建に尽力するわけですが、ここから先は動画のネタバレになってしまいますので割愛します。

 

東急社員としての田中氏は職務に忠実で、東急企業団の存続とグループ社員の雇用を守る事が第一と言う考えの根っからの会社人間でした。その一方でただ会社の言いなりになるような事はなく、目蒲電鉄復帰の為の勝手に出社など反骨心の持ち主でもありました。それでいてユーモアや茶目っ気があり、田中角栄の応援演説やロッキード事件の公判で証人として法廷に立った時もユーモアたっぷり、皮肉たっぷりの話術で爆笑の渦に巻き込むなど、エピソードには事欠かない人でした(本当はそのエピソードも書きたいところですが、長くなりすぎてしまうのでまたの機会に)

副社長となってからは社長の五島昇氏が財界活動で忙しくなったこともあって、東急グループの実務一切を取り仕切りました。重要な案件以外は五島氏の判断を仰がず、副社長の権限で全て決裁していたようで、「東急には社長が2人いる」と揶揄されるくらいでした。一方で田中自身はあくまでもナンバーツーの立場を崩さず、常に社長の五島氏を立て、いざと言うときには泥をかぶる事も躊躇しませんでした。グループの大半の決済を自分でしたのも、危うい案件を自分の責任で決済することでいざと言うときは責任が自分一人にかかるようにするためであり、少なくとも東急社内では「大番頭」であり続けました。東亜国内航空社長としての主人の顔と、東急副社長としての大番頭の顔。大抵はリーダー向き、サポート役向きとタイプが分かれるものですが、両方をこなせた田中氏は稀有な存在と言えます。

 

プライベートな部分では「ケチ副」の異名通り、ぜいたくには興味なく質素な生活を送っていました。たばこは1日に何箱も吸うヘビースモーカーでしたが、昼食は大抵蕎麦やパンなど軽く済ませ、背広も擦り切れるまで着続けまます。また、万が一東急を辞めることになった時に備え、給料はあまり使わず蓄財に廻すなど私生活でも倹約に努めました。田中氏がTDA社長就任の噂が流れた際に東急を辞めると言い切れたのも長年の貯えがあったから。一方で趣味らしい趣味はほとんど持たない仕事人間でしたが、唯一麻雀だけは熱中していたようで、コミュニケーションツールの一環として部下や取引先、果ては運輸省の幹部や全日空社長の若狭得治氏らと麻雀を囲んでいたようです。

 

何か書いているうちに結構な量になってしまいましたが、これでもまだ大分端折った方です。田中氏は2000年に95歳で大往生を遂げましたが、彼の没後18年、今では五島慶太や五島昇を知っている人はいても、田中勇の名前を知っているという人は少ないと思います。しかし調べれば調べるほど彼の波乱万丈な人生や、厳しさとユーモアを併せ持った彼の人間的魅力にも魅了されていきます。お陰でこのシリーズが長くなる長くなる・・・(笑)

シリーズが完結したら、改めて田中勇氏について総括したいと思います。まずは話を進めないと・・・

 

 

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続・相次ぐ航空会社の酒に関する不祥事 ~判決が出たロンドンの過剰飲酒事件に思う事~

先日、「東急の空への夢」第2話をアップしました。まだご覧になってない方は是非見て下さい。第2話から本格的に登場した東急の大番頭・田中勇氏については改めて補足記事を書く予定です。

 


迷航空会社列伝「東急の空への夢」 第2話・東亜国内航空

 

さて、今回は先日も話題にした航空会社の酒に関する不祥事、と言うかロンドンで起こったJAL副操縦士の飲酒事件の続報に触れたいと思います。


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11月29日、乗務直前に過剰飲酒で現地の警察に身柄を拘束されたJALの副操縦士に対する判決がロンドンの裁判所で言い渡され、禁固10か月の実刑判決が下されました。

これを受けてJALでは副操縦士を懲戒解雇、赤坂社長は役員報酬を3か月20%減給、安全統括管理者の専務は3か月10%減給処分となりました。また、同じ便で乗務する予定だった機長2人に対しても詳細は明らかにされませんでしたが、何らかの懲戒処分が下ったようです。

 

JAL、飲酒の副操縦士を懲戒解雇 禁錮10カ月、赤坂社長ら減給

 

これに先立ち、11月16日には国土交通省航空局に社内調査の結果と再発防止策をまとめた報告書を提出しました。防止策としては配備が遅れていた海外空港での新型アルコール検知器の配備(報告書では11月26日から開始、となっていましたが既に配備完了したようです)や、アルコール検査の際の地上スタッフの立ち合い、暫定措置として乗務24時間前以降の飲酒禁止が決められたほか、社内ルールの見直しや全社員に対するアルコールに関する研修などが行われる予定です。


JAL飲酒副操縦士「酒は飲んでいない。マウスウォッシュだ」 国交省に報告書と防止策提出

 

今回の事件に関しては、逮捕された副操縦士に関しては言語道断、自業自得と言うほかないと思います。副操縦士は機長昇格訓練や持病の事などで悩みを抱えていたそうで、それが過度な飲酒に走らせたのではないかとされています。旅客機のパイロットは定時運航や安全運航への重圧、膨大な知識や経験が要求され、ミスが許されないプレッシャーを常に抱えるなど、私達が想像もつかないような大きな責任とプレッシャーを日々感じている仕事であるとは思います。ストレスのはけ口を酒に求めるのも無理はない事なのかなとも思いますし、私も含めてですがお酒をストレスを紛らわす手段にしている人は多いと思います。

しかし、何百人と言う乗客の命を預かる責任や重圧が大きい分、旅客機のパイロットにはハードルの高い免許取得や厳しいルール、技能維持の為の審査や厳しいセルフコントロールが課せられますし、それに見合った報酬も約束されているわけです。理由や背景はどうあれ、明らかに乗務に支障をきたすと思われる程の飲酒量の多さや、アルコール検知器の不正計測やマウスウオッシュで飲酒検知を逃れようとした事は多くの乗客の命を預かるパイロットとしては絶対にやってはいけない事でした。こうなる前に会社に相談していれば、乗務からは外されたかも知れませんが適切なケアを受けることができたかも知れませんし、前科がついて海外の刑務所に収監され、全てを失う事にはならなかったかもしれません。

 

こうした中、11月28日には日本エアコミューター(JAC)でも乗務前の機長のアルコール検査で基準値を超えるアルコールが検出(制限値0.1mg/lに対し0.2mg/l)され、計4便に遅れが出てしまいました。ロンドンの方の判決が出る前に再び起こってしまった不祥事は最悪のタイミングで、当初はJAL本体だけだった件の乗務24時間前の飲酒がグループ会社全体に拡大したほか、11月30日のダッシュ8-400の定期便最終運航のイベントも中止(よりによってその機長の乗務予定の機体は最終便に使用予定のJA851Cだったのはなんたる皮肉・・・)ごく一部の人だけだと信じたいですが、これでは「ロンドンの事件の反省がない」と言われても仕方ないですね・・・改めてJALには再発防止の対策を求めたいです。

 

JAC、機長飲酒で遅延 4便に影響

 

なお、JALのホームページには航空局に提出された報告書が公開されています。社内調査に基づいて事件の時系列が詳しく書かれていたり、報道ではあまり触れられていない部分も書いてあるので時間があれば一読されることをおすすめします。機会があれば、この報告書についての記事も書いてみようかと思います。

www.jal.com

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黎明期の日本のローカル航空会社

迷航空会社列伝、今回はかねてより当ブログやツイッター等で告知していました「東急の空への夢」の第一回をアップしました。通常はYouTubeに先にアップ→数日~一週間後にニコニコにアップ、と言う流れですが、このシリーズに関しては「迷列車で行こうシリーズ九周年祭」の関係上、先にニコニコにアップしました。今後最終回まではニコニコに優先アップしていきますので、YouTube派の方には申し訳ありませんがよろしくお願いします。

 


迷航空会社列伝「東急の空への夢」 第1話 第三の航空会社・日本国内航空

さて、第一回では富士航空→日本国内航空を中心に、日本航空、全日空以外のいわゆる「ローカル航空会社」にスポットを当てました。これらの会社は「不定期航空運送事業」、つまり毎日運航する定期路線ではなく、多客期のみ路線を飛ばす不定期航路や遊覧飛行を行う会社で、幹線はもちろん、羽田や伊丹発着の都市間路線にも携わる事は出来ず、地方間路線や離島路線、観光主体の路線で細々と運航するだけでした。

今回は日本国内航空発足以前の日本各地に乱立したローカル航空会社についてもう少し掘り下げて紹介したいと思います。とは言っても、半世紀以上前の話なので私の手持ちの資料やネットで調べた情報で分かる範囲ですが・・・

 

・北日本航空

1953年6月30日に設立。当初はセスナ機による不定期航空事業を行っていましたが、1955年10月に定期航空進出を目指し日本で初めてダグラスDC-3型1機を購入。1957年8月に札幌~女満別~西春別間の三角飛行路線を就航させますが、元々観光客主体で利用者は少なく、しかも当時はレーダー設備なんてない有視界飛行でしたから冬場や悪天候時は運航できず、公共交通機関としての役割を果たせない状態でした。

当然、業績は悪化の一途を辿り、繰越欠損金の増大でクビが回らなくなった北日本航空は東急に資本参加を要請します。この頃東急は定山渓鉄道や函館バス、北見バスなど北海道内の鉄道・バス会社に次々と資本参加しており、当時はまだ健在だった五島慶太も北海道の観光地としての潜在能力に目を付けて東急グループの北海道進出の陣頭指揮を取っていました。北海道、特に北部は道路網も貧弱で鉄道も本数が少なく、利便性は良くなかったため、五島は運航率はともかく高速で移動できる航空路線に将来性を見出し、北日本航空への出資を決めます。1959年7月30日、東急は北日本航空株24.4%を出資して資本参加します。くしくも五島慶太死去の2週間前の事でした。

その後、北日本航空は1962年に念願の定期航空免許を取得して道内路線を拡充しますが、それでも業績は回復せず、運輸省に長大路線、と言うか幹線の参入を懇願します。しかしそれは結果的にローカル会社の再編の引き金となり、運輸省は幹線参入したいなら合併しろと言う事で富士航空、日東航空との合併→日本国内航空誕生につながります。

・富士航空

富士航空については動画内でも説明したので多くは語りませんが、1952年9月13日に日本航空宣伝協会として設立し、その後富士航空→三富航空→富士産業航空と何度も社名が変わり、最終的には1956年7月1日に富士航空に落ち着きます。動画内で「従業員の給料6か月未払い」と書きましたが、窪田俊彦が社長に就任したころの富士航空は資本金4千万円、従業員45人の零細企業で、しかも社長就任後に唯一の資産のセスナ機も競売通知が来るほど追い詰められていました。負債総額8000万円、不渡り手形1億7000万円。よくもまあこの状態からよく持ち直したと思います・・・

・青木航空→日本遊覧航空→藤田航空

立川飛行機のテストパイロットだった青木晴男が不定期航空事業の認可を受け、1952年4月26日に設立。実は全日空の前身である日本ヘリコプター輸送や極東航空よりも早く設立されています。1953年には早くも八丈島に就航し、羽田~八丈島や羽田~大島路線を中心に伊豆諸島への路線を飛ばしていました。特に羽田~八丈島路線は日ペリ→全日空も週二便ながら飛ばしており、当時では珍しいダブルトラック路線でした。

その後青木航空は1956年6月に日本遊覧航空、1961年8月に藤田航空に社名変更しています。ウィキペディアなどでは記述はありませんが、恐らく藤田航空に社名変更したあたりで藤田観光が経営に参加しているのではないかと思います。理由としては社名に「藤田」がついている事や、藤田観光が伊豆諸島に航路を持っている東海汽船に出資し、伊豆大島に「大島小涌園」という旅館をオープンさせているなど藤田航空のテリトリーである伊豆諸島に縁が深い事が挙げられます。間違ってたら申し訳ないのですが、以前の社名を捨ててまでわざわざ「藤田航空」と改称したのだから藤田航空と無関係、って事はないと思いますし・・・

そんな藤田航空も経営悪化には勝てず、1963年には全日空への吸収合併が決まってしまいます。合併直前の8月28日は藤田航空のデハビランド・ヘロン(一旦東亜航空にリースされたものの、団体輸送用に急遽リースバックした機体)が八丈島で墜落事故を起こしてしまいましたが、11月1日に予定通り全日空に吸収され、姿を消しました。

 

・日東航空

1952年4月2日、日本観光飛行協会を前身に産経新聞社が設立。当初は阪急電鉄社長の小林一三にも経営参画を仰ぐ予定でしたが、結局産経単独の出資になりました。1955年1月1日に大阪~白浜間の運航を開始し、1958年3月1日には日東航空に社名変更します。その翌月には近鉄も資本参加し、大阪を拠点に白浜や新居浜、別府や徳島などに飛ばしていました。

 

「・・・え?新居浜や別府に空港なんてあったっけ?」と思われるかもしれませんが、日東航空の主力機は水陸両用機のグラマン・マラード。大阪側からは伊丹空港から離陸しますが、別府や新居浜、白浜は空港ではなく水上で離着陸していたのです。中には大阪―白浜ー串本―志摩ー名古屋という紀伊半島を一周するルートもありました。

しかし、当時でも既に水上機は主流から外れており、日東航空の水上機路線も輸送力の少なさや運航経費が嵩んだ事で経営は思わしくありませんでした。結局日東航空も1964年の日本国内航空の合併で消滅し、水上機路線も翌1965年10月に運航終了、マラードも全機売却されてしまいました。

・中日本航空

1953年10月、航空機使用免許を取得し、その年の11月には不定期航空運送事業免許を取得します。1960年には名鉄と中日新聞が出資し、1963年7月には全日空からDC-3を購入して定期航空路線に進出。1964年9月の時刻表を見ると、名古屋ー金沢(小松?)、富山、大阪線と大阪ー金沢線を運航していたようです。

しかし例によって利用は思わしくなく、1965年2月には定期航空路線を全日空に譲渡して撤退。以後は測量や災害輸送、ヘリコプターと言った事業航空部門に注力し、現在ではドクターヘリや災害時の救助活動、航空写真や報道取材と言った生活に欠かせない分野で強みを発揮しています。一時期は中日本エアラインサービスに出資して定期航空運送に戻るかと思われた時期もありましたが、現在は事業航空大手として確固たる地位を築いています。

・東亜航空

1953年11月30日に設立。当初は小倉を拠点にしていましたが1956年に広島に本社移転。当初は鹿児島発の離島不定期路線や広島発着のローカル路線が中心であり、1963年に不二サッシが資本参加します。その後は大阪空港や福岡空港発着のローカル線にも進出し、1965年5月15日には日本国内航空に続きYS-11を就航させます。

売上高ベースでは日本国内航空の半分、全日空の10分の1以下ですが、日本国内航空が幹線の失敗とジェット機などの固定費増加で20億以上の赤字を出したのに対し、東亜航空はその10分の1程度の赤字にとどまりました。東亜の場合は幹線のお鉢が回ってこず、ローカル線のみの運航にとどまりましたが、その分余計な投資もしていないのが結果的には幸いしたようです。1967年度に黒字化、1969年度に累積損失を解消していますが、いずれも日本国内航空も1年早く、小さいながらも比較的堅実な経営をしていたようです。

とは言え、西日本のローカル線だけの東亜航空と、曲がりなりにも全国展開している日本国内航空との差は広がっていきましたので、単独での経営は厳しかったと思います。最終的には1971年5月15日に日本国内航空と合併して「東亜国内航空」となり、会社消滅。それでも一度も合併することなく、自力でそれなりの路線網を築いたのですから、ローカル航空会社としては成功した方だと思います。

・長崎航空

1961年9月設立と、ローカル航空会社では一番遅くできた会社ですが、ある意味では最も長く命脈を保った会社とも言えます。長崎の大村空港(旧長崎空港)を拠点に福江、壱岐に離島路線を運航していた長崎の第三セクター会社(当時はそんな言葉はありませんでしたが)でしたが、例によって経営は思わしくなく、運輸省の航空業界再編の指導もあって1967年11月に全日空に定期航空路線を譲渡しました。

その後は中日本航空同様貸切・遊覧飛行や事業航空に専念していましたが、1980年5月に長崎~壱岐間のコミューター路線で旅客運輸に再参入します。その後1981年に長崎~上五島線、1984年に福岡~上五島線を開設するなど長崎県の離島路線を順次開設していきます。機材は基本的に9人乗りのブリテン・ノーマン・アイランダーを使用していますが、採算性は良くなかったようです。

一方で事業航空部門の大半を1999年に佐賀航空(現エス・ジー・シー佐賀航空)に売却し、機材も2001年にボンバルディアダッシュ8-100型2機を購入して「オリエンタルエアブリッジ」に変更します。全日空から長崎~対馬・福江路線などを引き継ぐ一方、上五島・小値賀路線を廃止しアイランダーを退役させるなど、機材の大型化と事業や路線の整理を進めました。

最近ではANAから福岡~宮崎・小松線が移管されていますが、機材はANA塗装のダッシュ8-400を使用、でも運航乗員と便名はオリエンタルエアブリッジと言う良く分からない運航体系となっています。全便ANAとのコードシェアとANA色が強まってきていますが、ある意味ローカル航空会社最後の生き残りと言えますから、独自色を出しつつ頑張って欲しいですね。

 

以上、1950年代~60年代前半に相次いで設立されたローカル航空会社を紹介してきました。各社のその後は大きく分けて全日空に合併または事業譲渡したグループ(藤田航空、中日本航空、長崎航空)と、東亜国内航空→日本エアシステムに集約されたグループ(北日本航空、富士航空、日東航空、東亜航空)に分けられます。今はANAかJALのどちらかの路線になっている各社の路線。何気なく乗っている路線にも、実は深い歴史があったりするのかも知れませんね。

 

今はこうなっている「空港跡地」

 

今回は以前ニコニコでアップしていたエアポートウオーク名古屋について、迷航空会社列伝Liteでアップしました。「航空会社じゃないだろ!」というツッコミをニコニコの方で頂きましたが、空港ネタはそう多くもないし一々タイトル変えるのもめんどくさかったんでそのまま出してしまいましたw

 


迷航空会社列伝Lite「究極のリユース&リサイクル」エアポートウオーク名古屋

 

さて、エアポートウオーク名古屋の元となった名古屋空港国際線ターミナル。名古屋空港自体は県営空港として存続していますが、使用されなくなったという意味では立派な「空港跡地」。日本では定期路線が飛んでいた空港で単純に供用廃止になった空港はそう多くはありませんが、空港の移転や拡張で使われなくなった「旧空港」は結構あります。今回はそんな「空港跡地」がどうなっているのか調べてみました。

 

・旧鹿児島空港

現在の鹿児島空港は1972年に移転したものですが、それ以前は鹿児島市内の鴨池と言う場所にありました。戦前からの海軍の飛行場を民間空港として転用し、ターミナルビルも建てられたのですが、市街地故これ以上の滑走路延長は難しく、大型ジェット機に対応できないため現在の場所に新空港が建設されて移転しました。

その後旧鹿児島空港は「鴨池ニュータウン」として再開発され、1996年には県庁や県警本部が移転するなど、鹿児島市の行政の中心地となります。その一方で旧ターミナルビルは建物が新しかった為か、1階がスーパー、2階以上は事務所として再利用されていたようです。ターミナルビルの商業施設への転用は実は前例があったんですね。また、格納庫も地元のバス会社「南国交通」の車庫として再利用されていましたが、2008年に車庫の移転に伴い解体。旧ターミナルビルも老朽化の為2014年には残念ながら取り壊されてしまいました。

 

・旧高松空港

国管理の旧第二種空港の中ではジェット化が遅かった高松空港。旧高松空港は戦前に建てられた旧林飛行場を民間転用していたのですが、滑走路は1200mとYS-11くらいしか発着できず、市街地や田畑に隣接していてこれ以上の拡張は不可能でした。新空港の建設も当初は高松市生島町沖に埋め立て地を作る計画だったのが、オイルショックや環境問題で流れ、現在地での建設が決まったのは1983年になってからでした。こうした経緯もあって新空港への移転は1989年12月16日と平成になってから。離島を除けば平成に入ってからも羽田発着路線がYS-11だったのはここと南紀白浜だけでしたので、高松空港の移転は相当難航した事が伺えます。

移転後の高松空港の跡地は「高松インテリジェントパーク」としてサンメッセ香川や香川県立図書館、香川大学工学部などが立てられ、香川県の文化・学術研究の中心となっています。

 

・旧南紀白浜空港

和歌山県白浜町にある空港ですが、その所在地からも分かる通り、南紀白浜エリアへの観光客が利用主体となっています。県庁所在地である和歌山市からは車で2時間近くかかる事や、至近距離に関西国際空港もあることから県内の利用者も人口の多い北部エリアからはほとんどありません。

そんな南紀白浜空港ですが、旧空港時代に作られた滑走路は例によって住宅地や地形的な問題で拡張が困難だったことから隣接地に新空港の建設が決定。1996年3月9日に1800mの滑走路(のちに2000mに延長)を有する新空港が開港し、念願のジェット機就航を果たしました。ちなみに、高松空港が移転、ジェット化された後は羽田~南紀白浜線はJAS最後のYS-11運航路線、離島以外では最後の羽田発着YS-11運航路線として有名になっています。

新空港移転後の南紀白浜空港ですが、敷地の一部はバラ園として整備され、滑走路跡地はイベント時には臨時駐車場として利用されています。旧ターミナルビルは廃港後もしばらく現存していましたが、2010年に解体されました。前述の2空港に比べると空港の痕跡はかなり残っているようですが、再開発するほどの需要がなく、撤去する必要がないから残っているだけなのかも知れませんね・・・

 

・旧広島空港⇒広島西飛行場

1961年に供用開始された旧広島空港は広島の市街地に近く、利便性は非常に高かったのですが、例によって空港の拡張が困難で、ジェット化はしたものの滑走路は1800mが限界。本来なら2000m級滑走路が必要なボーイング767やエアバスA300を無理矢理飛ばして何とか旅客をさばいている状態でした。ターミナルビルや駐機場など、滑走路以外の施設もこれ以上の拡張は困難だったため、1993年に10月29日に新空港に移転しました。

ここで他の空港と違ったのは、旧広島空港をコミューター路線用の県営空港として再利用した事。新広島空港の開港と同時に旧広島空港は県管理の「広島西飛行場」として再スタートを切りました。幸い、西瀬戸エアリンクからコミューター事業を引き継いだJAL系列の「ジェイエア」がそのまま広島西飛行場に残ったため、当初は出雲や松山、関空などそれなりに路線はありました。余談ですが、2000年にタイトーが発売した「ジェットでGO!」というゲームにも広島西飛行場とジェイエアのJS31が収録されています。今となっては貴重ですね。

 

そんな広島西飛行場でしたが、2000年にはジェイエアがCRJ200を導入した事で再びジェット化を果たします。この頃には日本エアコミューターの鹿児島・宮崎線やフェアリンク(現IBEXエアラインズ)の仙台線なども就航し、広島西飛行場は一気に活性化します。が、広島西飛行場に引導を渡すきっかけになったのは他ならぬCRJ就航でした。

広島県がジェイエアへの補助金を打ち切った事や、50人乗りのCRJでは広島西発着路線には大きすぎた事でジェイエアは段階的に広島西路線を縮小、2005年2月の中部国際空港開港に伴う県営名古屋空港の開港に伴い、本社機能ごと名古屋に移転し、広島西からは完全撤退しました。フェアリンクの路線も不採算ですぐに撤退し、残るはJACの鹿児島、宮崎線のみ。その辛うじて残っていた2路線もJALの破たんと九州新幹線の開業で路線存続が難しくなり、2010年10月31日に廃止。元々広島県が空港機能を広島空港に一本化したがっていた事や、安佐南道路の建設で滑走路の短縮を迫られていたこともあって広島市は空港の存続を断念。2012年11月15日に広島西飛行場は廃港となり、現在は「広島へリポート」としてドクターヘリや警察や消防などのヘリコプターの拠点として使用されています。

 

・羽田空港跡地

 

この項目を見て「日本最大の羽田空港の跡地?」と疑問に思われた方も多いと思いますが、現在の羽田空港は90年代以降の沖合展開事業で、当時の空港所在地の沖合に埋め立てられた場所に移転しています。空港自体は変わってないのですが、実際のところは新しい空港を作って移転したのと近い状態で、元々市街地に近い天空橋駅周辺の約20ヘクタールの広大な土地など、3区画合計54ヘクタールは空港として利用されることなく「跡地」となりました。

現在、この「跡地」では再開発計画が進められており、天空橋近辺の20ヘクタール(第一ゾーン)は先端産業の企業誘致や複合施設の建設などが計画されています。2020年夏には「Zepp Haneda(仮)がオープン予定。今はまだ更地に近いですが、工事は既に始まっており、数年後には羽田空港の「跡地」は一大拠点に変貌することになりそうです。

 

trafficnews.jp

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以上、日本各地の空港跡地のその後をご紹介しました。市街地に近い跡地は再開発されたりして有効に活用されていますが、南紀白浜空港や、動画内でも画像を使用した旧種子島空港のように、活用されずに放置されているケースも少なくありません。また、正式に廃港にはなっていないものの、定期路線廃止で廃墟同然になっている礼文空港や上五島空港の例もあり、利用されなくなった離島の空港をどうするかという問題もあります。空港として整備した以上、空港として有効活用されるのが一番なんですが、様々な理由でその役目を終え、「跡地」になった後どう再利用するか、鉄道の廃線跡ほどではないものの、地元にとっては頭の痛い問題ではあります。願わくば役目を終えた空港が「廃墟」となることなく、土地や建物(老朽化や転用先がない場合は解体もやむなしですが)が有効に活用され、形を変えてでも地域の役に立って欲しいものです。

 

酒は飲んでも呑まれるな・・・相次ぐ航空会社の酒に関する不祥事

すいません、仕事が忙しいのと新作動画の制作でブログの方が滞り気味になっていました。しばらくぶりに更新する内容が不祥事関係と言うのもアレなんですが・・・

 

10月28日、ロンドン・ヒースロー空港発羽田行きのJAL44便に乗務予定だった副操縦士が、イギリスでの基準値を大幅に上回るアルコールが検出され、その場で現地の警察当局に拘束されました。乗務前の会社の検査ではアルコール反応は見られなかったものの、その後航空機に向かうバスの運転手が副操縦士からアルコール臭を感じて空港の保安担当者に連絡。警察の呼気検査で規定値0.09mg/lに対し約10倍の0.93mg/lのアルコール量が検出され、その場で身柄を拘束されてしまいました。

 

JAL副操縦士、英国で拘束 乗務前アルコール検査基準を大幅超過

 

副操縦士の会社への説明では出発時刻の20時間前までに滞在先のホテルでワイン2本とビール5本を飲んだとしていますが、確かにそれだけの量を飲めば、アルコールが体内に残っていてもおかしくありません。日本の法令では乗務8時間前の飲酒を禁止していますが、呼気検査の基準に関しては日本国内では明確な規定はなく、各社に任せられています。一方のイギリスでは呼気検査や血中濃度の基準が決まっており、副操縦士はいずれも基準値を大幅に超えた数値が検出され、悪質性が高いとして逮捕されてしまいました。呼気検査に使われた機械も息を吹きかけるだけの旧型で、事件を受けたJALでは今月中に新型機械への入れ替えを行うとしています。さらに国交省も相次ぐ飲酒トラブルを受けて基準を強化するなど対策に乗り出しました。

 

飲酒で拘束されたJAL副操縦士、29日に判決 国交省は基準強化

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更にANAでも酒に関する不祥事が相次いでおり、10月25日にANAウィングスの機長が飲酒による体調不良で乗務できなくなり、代替パイロットの手配で5便が遅延。またパイロットではありませんが、10月3日にはパリ支店長が羽田行きANA便の機内で酒に酔って乗客にけがを負わせ、諭旨解雇処分となっています。

ANA、子会社パイロット飲酒で5便遅延

ANA、パリ支店長が酒酔いで乗客けが ワイン6杯、諭旨解雇

 

さらに言えばJALも2年前に副操縦士が乗務12時間前の飲酒禁止の規定を破った上に機長や駆け付けた警察官に暴行を加えて逮捕される不祥事を起こしており、前述の新型アルコール検知器はこの不祥事を受けて入れ替えを行っている最中でした。

JALの副操縦士、断酒を虚偽申告 2年前から飲酒

 

今回の件に限らず、飛行機のパイロットは少しのミスが取り返しのつかない大惨事になる可能性もある程大きな責任を背負っており、酒気帯び状態での飲酒などもってのほか。それ故乗務前の飲酒は他の乗り物よりも厳しく制限されるはずなのですが、意外にも航空法ではパイロットの飲酒に関する規定はなく、呼気検査の基準に関しても各社まちまちでした。パイロットの数が少なく、特殊な職業であった時代なら「飲酒を含めた自己管理ができていて当然」と各個人や会社の倫理観にゆだねることもできたと思いますが、航空会社や航空機の数が増え、世界的にパイロットが足りなくなってきている現代では残念ながらパイロットの質や倫理観にも差は出てくると思います。これを機会にパイロットの飲酒に関する基準を明確化し、違反した場合の罰則や検査体制の強化などを整備する必要があるのではないかと思います。

 

ところで、酒に関するトラブルは何も航空会社に限った事ではなく、私たちの日常でも起こりうることです。パイロットでなくとも過度な飲酒で酩酊状態になり、他人に迷惑をかけたり、ましてや暴力沙汰になるような行為は現に慎むべきでしょう。ANAのパリ支店長の件はまさに酒での失態で全てを失ってしまったケースであり、このケースに限らずとも、酒の席での不祥事が命取りになってしまった例は多々あります。

また、日本は比較的酒の席でのトラブルには寛容なお国柄ですが、海外ではそうじゃない国の方が多数派で、公共の場での飲酒は禁止になっている国が多いですし、欧米では公共の場で酩酊状態になるのは軽蔑の対象になります。先日の渋谷のハロウィンのバカ騒ぎなんかは、海外の人から見れば「公共の場で泥酔して暴れたり物を壊したりする野蛮な行為」と映って軽蔑の対象になってもおかしくないと思います。さらに言えば飲めない人や未成年に飲酒を勧める行為も海外では御法度。一見すると他の国でも酒を飲んでバカ騒ぎしているように見えても、ちゃんと節度を守って飲んでいたり、場所をわきまえていたりしますので、公園の花見などで普通に酒を飲んでいたり、電車やバスで酔いつぶれてたりする人を普通に見かける日本の方が世界的に見れば異常とも言えます。

 

今回のJALの副操縦士の一件は何百人もの乗客の命を預かるパイロットとしては許されざる行為であり、酒気帯び状態のまま操縦して万が一の事があった場合の事を考えると、乗務前に拘束されたのは不幸中の幸いとも言えます。しかし、一連の酒に関する不祥事は酒に対して寛容すぎる日本の文化にも一因があるような気もします。私はお酒は好きですが、誰かに強要されたり度を過ぎて飲み過ぎるのは好きではありませんし、そろそろ泥酔に寛容すぎる日本の酒文化は修正する必要があるのではないかと思います。一連の不祥事を単に航空会社の問題と片づけず、私達にも起こりうることと考えて他山の石としなければならないのではないでしょうか。

YouTubeメインチャンネル「迷航空会社列伝」登録者1万人突破!

10月11日、YouTubeのメインチャンネル「迷航空会社列伝 by akamomo」のチャンネル登録者数が1万人を突破しました!登録して頂いた皆様本当にありがとうございます!

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いい機会なので今回はメインチャンネルのこれまでの歴史を書き残しておきたいと思います。

 

2016年11月21日 

YouTube版初投稿としてイラン航空回投稿。ニコニコで最初に作ったコンチネンタル航空を投稿しなかったのは、ニコニコのみで使用可能な素材や商業使用NGな画像をたっぷり使っていて画像やBGMの差し替えが必要だったため。反応はほとんどなし。

 

11月25日 

スロバキア航空回投稿。ニコニコでは出せば数日で1万再生は行ったのにYouTubeは十数回程度で地味に凹む。

 

12月 

YouTube用に編集し直したコンチネンタル航空回を順次投稿。それが終わった後はデルタ航空回も投稿。動画の数が増えたからか再生数、チャンネル登録者数とも増えていき、400人くらいまで増える。

この調子で年明けには登録者1000人突破するぞと調子に乗る。

 

12月27日 

横浜国際航空回投稿。が、エンコードが上手く行かなかったのか、画像の乱れが多かったので一旦消して再エンコード。そしてその直後、

 

「Googleの利用規約に違反している」と言われてYouTubeアカウント停止

 

全く身に覚えのない事で呆然としましたが、慌てて原因を調べ、同様のケースに陥った事例を片っ端から読み漁りました。その結果、推測ではありますが無駄にURLを貼り付けまくったり、短期間で何度も動画のアップロードや削除を行うなどの行為が「スパム、誤解を招くメタデータ、詐欺」の疑いありとAIが判断してアカウント停止になる「誤BAN」を喰らったようです。

確かにニコニコと同じ感覚で続き物のコンチネンタル回に前後の動画のURLをせっせと張り付けたり、横浜国際航空回を簡単に削除して同じタイトルで再アップしたりしたので、怪しいとAIに疑われても仕方ない事をしていました。ニコニコでは説明文にURLを貼り付けたりアップをやり直したりは普通にやっていた事ですが、YouTubeではアウトだという認識もなく、調べようともしなかったのが失敗でした。

 

ちなみに再アップした横浜国際航空回も映像の乱れはありますが、正直これについては誤BANの引き金になった原因なので、触らずにこのままにしています・・・

 

とは言え、納得いかないのは確かなのでいろいろ調べてみると、他にも誤BAN喰らっていた人が結構おり、再審査請求の結果アカウント停止が解除された人もいることが判明。すぐに再審査請求のメールを送りましたが、年末と言う事もあって何の進展もないまま年を越してしまいました。

 

2017年1月

正月明けに再審査請求請求をもう一度出してみるもやはり反応なし。再審査請求から数日で復活した人もいれば、数か月たっても連絡すらない人、審査の結果アカウント停止継続の人もおり、もう復活は無理かと半分諦める。それでも10日に1度くらいの割合で再審査請求を出し続けました。

 

1月26日朝

ようやくYouTube側から審査結果が届くも、結果は「アカウント停止継続」

しかしやましい事はしてないし納得がいかないのでアカウント停止に至った経緯と自分なりの原因を書いてもう一度審査をしてもらうようお願いしてみる。これでダメならもうアカウント復活は無理だと諦めの境地に。

 

1月26日夜

再審査の結果、問題なしと判断されてアカウント復活!

正直、復活は無理だとあきらめていたので本当にうれしかったです。と同時に規約をよく読んで疑わしい事もしないでおこうと固く誓う。

 

※補足:現在はYouTubeのやり方も変わり、このような誤BANはあまり無くなりました。

 

2月3日

同じくニコニコでシリーズ物で上げていた「東海道交通戦争」のアップ用としてサブチャンネルを立ち上げる。こちらは鉄道要素もそれなりにあったのでチャンネルを分けたほうがいいと思ったのもあるのですが、それ以上に「万が一再びアカウント停止を喰らった時の保険」という意味合いもありました。

12月にアカウント停止になった際、再審査フォームにたどり着きたくてもアカウントが開けないから再審査請求を出すのに四苦八苦したので、もう一つチャンネルを持っていれば片方のチャンネルが止められたとしても、もう片方のチャンネルから再審査請求ができると思ったのです。そして3か月後、その判断が正しかったと確信した出来事が起こります。


4月 2日 

登録者数1000名達成!しかし達成した原動力があのオリエントタイ航空の動画なので複雑な気持ちも多少あり。

4月21日 

登録者数早くも2000名達成!20日足らずで1000人も増えてうれしさ半分、戸惑い半分。しかしその原動力になったのがあのオリエントタイ航空の(以下略

 

5月21日

サブチャンネルの「東海道交通戦争」誤BAN。恐れていた事態が再び起こりましたが、2度目と言う事もあり、メインチャンネルからクリエイターサポートチームに相談。今度は2日で復活できました。YouTubeさんの迅速な対応に感謝。チャンネルを分けておいてよかったとしみじみ思う。

 

7月17日 

登録者数3000名達成!さらに7月25日に再生回数50万回達成し、YouTubeでも自分の動画が通用すると自信を持ち始める。

 

8月25日 

登録者数4000名達成!しかしこの後再生数、チャンネル登録者数とも伸び率が鈍化し、動画を投稿しても大して再生数が伸びなくなる。自信喪失気味になる。

 

12月23日 

登録者数5000名達成。1000名増やすのに4か月もかかったのは初めてで、行き詰まりを感じ始める。2018年1月3日に再生回数100万再生突破するも、再び停滞期に。

2018年3月28日頃 登録者数6000人達成

 

6月下旬頃 

登録者数7000人達成。 正月に「今年の目標はメインチャンネルの登録者数15000人」と言っていたのに、このペースでは目標達成どころか年内の1万人突破も厳しい状況。「今年中に1万人突破すれば御の字」と、これ以上のチャンネル拡大を半分諦める。

 

 

 7月・8月

初代エアアジアジャパン回から始まるLCC三部作を投稿。以前の動画に比べるとやや再生数が良くなってきて、少し手ごたえを感じる。8月28日に登録者数8000人達成。このペースなら年内1万人は行けそうだとやる気を出す。

 

9月17日

ANA貧乏くじ伝説前編を投稿。投稿直後から再生数が今までに経験した事のないスピードで上がっていき、1日2万再生近くまで行く。しかもいつもなら投稿した次の日には再生数はガクンと落ちるのに、数日たっても再生ペースはほぼ変わらず。嬉しいはうれしいのですが、何が起きたのか分からず喜びよりも戸惑いの方が大きかったです。

そして9月23日に登録者数9000名、10月1日に200万再生を突破!

 

そして10月11日の朝、遂にチャンネル登録者数10000人を突破しました!

 

正直、伸びる時はここまで伸びるのかという驚きの方が大きく、急に注目され始めた事に戸惑っています。バズり始めた当初は新作のANA貧乏くじ伝説がけん引役でしたが、これをきっかけに過去の動画も軒並み再生数を伸ばしており、それが急な再生数上昇の要因だったようです。

さらに個人的にうれしいのはここ一週間でコンチネンタル航空の初回の再生数がかなり伸びてきて、現在の私のチャンネルで一番再生数の多い動画となっている事。コンチネンタル航空は私が航空会社の解説動画を作るきっかけになりましたし、ゴードン・ベスーンやジュン・ツルタといったコンチネンタル航空再建の立役者の存在とそのマネジメントの素晴らしさを知って欲しいという思いが動画制作の原動力になりましたから、思い入れの深いこのシリーズが再び注目されるのは本当に嬉しいです。

 

現在11月の公開に向けて「東急視点の東亜国内航空⇒日本エアシステムの歴史」をテーマに新作を作っています。恐らくこれも5~6回くらいの大作になりそうですし、話の中心は貧乏会社のTDAの再建話と、再建の陣頭指揮を執った東急の大番頭・田中勇のエピソードになると思います。コンチネンタルとはまた違った感じの話になってくると思いますのでどうぞお楽しみに。

 

皆様のお陰でここまで来ることが出来ましたが、まだまだ工夫しないといけないなと気を引き締めているところです。紹介したい会社や人物もまだまだありますし、東海道交通戦争が完結したらそろそろ鉄道関係の動画ももう一度手がけてみたいなと思います。

実は構想はある程度出来ており、第一回の原稿も少し書いています。しくじり企業テイストな感じの解説動画を考えていますが、タイトルは別のものにする予定。今後も驕る事なくクオリティ重視で投稿して行きますので、これからもよろしくお願いします。